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郷土の先人・先覚172 鶴岡工業野球部の育ての親

土佐内佐吉(明治19-昭和38年)

土佐内佐吉氏の写真

土佐内佐吉は明治19年10月22日鶴岡市に出生、同市七日町(現・鶴岡市本町二丁目)に代々続いた塗り師名家・土佐内家の家業を継いだ。当時、鶴岡の産業は織物、絵ロウソク、塗り物が主たるものであり、土佐内はその業の研鑽に努め、鶴岡塗りの評価向上に多大な貢献をした。

土佐内は職人気質の凝り性で若いころから家業の合間に将棋を好み、有段者として名を成した。終戦後は笹原雄次郎氏と共に名人・木村義雄らを招き、鶴岡棋界の隆盛、発展に尽力している。

野球との出会いは定かでないが、昭和初期の草野球が盛んなころ、子息が野球を好み、成長するに従って関心を深めていった。当時、鶴岡野球の先覚者・平田吉郎翁が地方野球の発展を願い、平田杯を寄贈して野球大会を開催。ファンも激増したが、判官びいきの土佐内はどちらかというと鶴岡工業を応援していたという。

後年、四男・吉治氏(プロ野球国鉄スワローズ入団)が鶴岡工業に入学、名投手として山形県下を制覇したころ、土佐内は鶴岡工業野球部後援会長として家業を投げ打ち、物心両面に渡り援助をした。自らも大学(法政、日大、専修、立教)の選手をコーチとして招き、自宅を開放して宿泊はもちろん、接待、費用の全般を負担し、野球の指導・強化に努めた。

土佐内は毎日午後3時になると鶴岡工業グラウンドのベンチに座り、球児の一投一打に目を向け、暗くなっても練習終了まで見続けるのが日課。遠征のときは古びた桐下駄、和服姿に鳥打ち帽のいで立ちで選手と一緒になり、試合が進むと懐より鉛筆とメモ用紙を取り出し、得点経過を丹念に書き入れた。この記録は、今も土佐内家に保存されているという。

土佐内の鶴岡市営球場の指定席は正面スタンド一塁側の中段。試合ごとに集まる鶴岡工業OB、愛好者は土佐内の試合の見通しや選手の調子、監督の作戦など実に的確な批評に教えられたものである。

鶴岡の野球を語るとき、土佐内を知らない人はない。特に鶴岡工業の球児には限りない愛情と援助を惜しまなかった恩人として、また鶴岡工業野球部の今日に至る礎を築き、精神的支柱とした思想が底流にある。

土佐内の時代、鶴岡工業は三度甲子園への道を閉ざされた。昭和14年、四男・吉治投手の時代、昭和26年佐藤幸一氏の時代、そして昭和29年の田沢芳夫(プロ野球南海ホークス)氏の時代である。土佐内は心の無念を中学校野球の育成にあると痛感し、翌30年時の鶴岡市長・松木侠氏の協力を得て中学校野球大会を創設。高校野球強化の道を拓き、市長杯、土佐内旗の大会として親しまれた。

土佐内は真に清廉な人であった。権力におもねることもなく、また名声を好まず、栄誉も望まず、ただひたすらに野球を愛し、若者に語りかけた。その好々爺の姿は懐かしく偲ばれ、温情と薫陶は永く後世に引き継がれるであろう。

土佐内佐吉は昭和38年7月16日、愛し続けた高校野球全国大会開催の日にその生涯を終えた。77歳であった。

(筆者・榎本 寅吉 氏/1989年10月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

土佐内 佐吉(とさうち・さきち)

鶴岡市旧七日町の生まれ、塗り師、元プロ野球投手・土佐内吉治さんの父。吉治さんが鶴岡工業の名投手として県野球界に名を馳せたころ、鶴岡工業野球部後援会長を務め、大学選手を自費でコーチに招くなど家業を投げ打って物心両面に渡って援助、同校野球部の基礎を築いたといわれる。甲子園への道は中学野球の育成から―、と昭和30年に当時の松木侠市長に働きかけ、自ら優勝旗を寄贈して中学校野球大会を創設した。

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