安政2(1855)年9月、斎藤千里は松山藩士・斎藤亮助、滝夫妻の長男として生まれており、父・亮助は日置流の免許皆伝を受けた弓術家である。
幼少から学を好んだ千里は、長じて宮城県師範学校に学び、明治10(1877)年7月には同校を卒業して、酒田の琢成小学校訓導となっている。だが、いつまで訓導を勤めたかは不明である。
やがて明治22(1889)年7月、町村制の施行により、白井新田、野沢村、吉出村、遊佐村が合併して新しい遊佐町が誕生したとき、初代村長に任じられ、同25(1892)年まで村政を司っている。また、酒田町の町会議員も12年間の長い間務めている。そのほか「両羽新聞」を創立してその社主となり、情報活動や社会事業家として活躍している。
明治27(1894)年10月の庄内大地震の際は、酒田の須田古龍(漢学者)と共に「震災救済義会」をおこし、両羽新聞社の社屋が被災したにも関わらず、被害者の救済に力を尽くしている。酒田町長・中山英則は、次のような感謝状を与えてこれを謝している。
「(中略)貴下始メ被害ノ中ニ在ルニモ拘ラズ率先救済ノ労ヲ採ラレタル結果大ニ著ク救済ノ途ヲ得候段、我同胞ト共ニ永ク子孫ニ伝ヘ深ク銘刻セザル可カラズ」。
同じく飽海郡長・佐藤直中も「(中略)貴下慈善ノ芳志ヲ以テ率先救済ノ労ヲ採ラセラル」と感謝状で称えている。 こうした千里の慈善の行為は、彼の深い信仰心の発露からであろう。
話は前にさかのぼるが、明治13(1880)年1月、当時酒田に来たカトリック教のフランス人宣教師・ツルペンの洗礼を受けている。それから5年後の同18(1885)年、同じくフランス人のダリベル神父が鶴岡に来たのを機会に深い親交を結び、一家を挙げて信仰し、カトリック教徒となっている。
酒田市相生町に曹洞宗の海晏寺がある。その墓地内に花崗岩に英文で刻まれた珍しい外人の墓がある。記録によれば、英国の宣教師ソス・スミスの墓で、慶応元(1865)年来日して、明治7(1874)年には酒田に来ている。34歳で亡くなったが、墓碑を建立したのが千里である。
千里が没したのは明治28(1895)年12月で、41歳である。葬儀はカトリック教の儀式で行われ、自宅から海晏寺までの沿道には2000人余の会葬者が集まったといわれている。
社会事業家。宮城県師範を卒業して酒田琢成学校の訓導になった。明治22年町村制施行とともに遊佐村に招かれて初代村長に就任。25年4月まで務めた。その間、酒田町の町会議員に選ばれ、両羽新聞を発刊、社主としても活躍。同27年10月に発生した大地震では、漢学者・須田古龍と震災救済義会を組織し、救済活動に尽力した。