表具師として名を成し、また掛け軸や巻き物のシミ抜き、修繕の技術では日本一と言われた久村清斎は、文久元(1861)年、酒田今町(現・酒田市日吉町一丁目)の肝煎(きもいり=名主)久村清蔵の長男として生まれた。はじめ金蔵と称し、明治21年ごろに清斎と号した。これは父が清蔵、長男は清太、二男は清二と久村家の通り名である「清」の字に、私淑した富岡鉄斎にあやかり「斎」を入れて清斎と号した。聴琴(ちょうきん)堂は店名である。
表具の技法は高田という表具師に弟子入りしたが、3カ月余りで暇をとっている。その後は師匠を持たず独力で自分の道を開いている。
明治14年、明治天皇が東北御巡幸の折、酒田にお泊りになるというので、本町の行在所のふすまや障子の張り替えを頼まれて、それを見事に仕上げている。その時金蔵は21歳であった。以来表具師として本格的に道を歩んだという。
清斎の腕を慕って弟子入りする者が県内はもとより、東北各地から集まり、30余人の弟子を養成、多いときは14人の内弟子が同居していた。だが、清斎は名人・名匠にありがちな気難しさや人付き合いの悪さ、偏屈などがみられず、夫人や弟子たちを大声で叱ることがなかったという温和な人であった。しかし、こと仕事となると己には厳しく、表装を格式の高い芸術作品に仕上げてゆく烈々たる気迫に溢れていたと、門人たちは語っている。
昔は師匠が手を取って弟子に仕事を教えることはなかった。仕事は盗んで覚えろと言われたそうであるが、清斎の弟子、故杉原健太氏から次のような話を聞いたことがある。
「師匠の元を離れて京都で表具を学び、一流の店を渡り歩いて8年間修業、その間師匠に教わった以上のものを盗み取って自分のものにしようとしたが、そんな技法もなく、かえって師匠に教わった書画修繕の技術を盗まれて帰った」と。この話からしても清斎の技法は日本一であったことが知られる。
清斎は表具のほかに鶴岡出身の画家・服部五老に指導を受け南画を描いている。そんな関係からか富岡鉄斎との交際が長い間続けられている。この庄内地方に鉄斎の作品が残っているのも清斎を通じて入手したものが多いという。晩年は絵筆に親しみ静かに過ごしたという。
長男・清太氏は科学者で帝国人造絹糸社長になった。丹羽文雄氏は著書『久村清太』の中で、清太氏について「京都の表具師もできない掛軸等のシミを抜く不易糊(ふえきのり)は、清太が発明して父の仕事を助けた」とある。
清斎の没年は昭和20(1945)年、85歳だった。
日本一といわれた表具師。文久元(1861)年酒田市の今町(現在の日吉町一丁目あたり)生まれ。表具師に弟子入りしたが、わずか3カ月余で独立、独学で本格的に表具師の道へ。明治天皇の東北御巡幸に伴い、酒田本町のお宿の障子、唐紙を張り替え見事な仕上げが高く評価された。腕前を慕って各地から弟子入りした40人近い表具師を養成。また、南画も習い、富岡鉄斎から画法の指導を受けた。昭和20年2月6日、85歳で亡くなった。