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郷土の先人・先覚182 眼科医の傍ら近代弓道を導入

金内哲太郎(明治17-昭和29年)

庄内地方の弓道界の先駆者といわれている。特に近代弓道を導入した功績が高く評価されている。

鶴岡市の荒町(現・山王町)に生まれた。荘内中学を4年で修了、愛知医学専門学校に進み、大正2年の卒業とともに名古屋の瀬木眼科医院の副院長になった。この年の秋には鶴岡に帰って、旧十日町で眼科医院を始めた。

鶴岡の柔術家・岩瀬重周(いわせしげちか)に柔術を習ったのが哲太郎の武道の始まりで、荘内中学在学中の明治35年5月、大日本武徳会山形支部発会式の試合に学校代表(4人)として出場。優勝して短刀を受けている。

その後、明治の日本弓道界の第一人者・本田利実に東京で弓を習った。弓道は武士の表芸として重視された。飛び道具といっても軍事的には鉄砲の普及で、だんだん人気が衰えたが、地元には荘内藩士の高山八右エ門、吉井助之丞、田辺亀次郎など弓の達人が相次ぎ、明治になっても旧士族の間に弓を嗜む人は少なくなかった。

しかし、時代の流れで、ひところ盛んに利用された藩校・致道館(馬場町)の矢場も姿を消し、弓道は廃れる一方。このような状況のもとで、哲太郎が鶴岡に新しい弓道の普及を図った。

眼科医を開業する傍ら、旧二百人町に弓道場を開設し、同好者を集めて指導。昭和の初めごろには酒井家の協力を得て旧・市野球場入口付近に弓道場を建設した。同好者のほか、庄内中学校の生徒も指導し、毎年正月に行われる道場開きには庄内一円から多数の同好者が参加し、盛況だったと伝えられている。

旧荘内中学校の弓道部が創設されたのがいつごろかは定かではないが、「県立鶴岡南高校八十年史」によると、大正14年ごろと推定され、「創設のときの部長は萱間先生だが、実際に指導に当たったのは金内哲太郎先生」と記録されている。同校の弓道部発展に大きく貢献している。

知り合いの人たちによると、「体が大きく、がっちりしたタイプの人であった」と哲太郎を偲ぶ。昭和5年8月、本田利実の高弟で、哲太郎とは同門の阿波研造を仙台から招いて開かれた大審査会で、当時としては破格の5段を受けた。阿波は大正から昭和にかけての大弓道家といわれている。

一方、仕事の方では、鶴岡市内の小、中、高校の校医を務め、昭和13年から17年まで鶴岡市医師会長、引き続いて5年間、山形県医師会鶴岡支部長を歴任している。

明治から大正期にかけての庄内では、学童の間にトラホーム(トラコーマとも。伝染性の結膜炎)が流行した。なかでも農村部がひどかったらしい。帰郷して眼科医を開業した哲太郎は、学童のトラホーム対策に熱心に取り組んだ。

哲太郎からの対策が効果をあげて、トラホームの罹患者が減少。地域医療に尽くした功績は、多くの人たちから感謝された。

(筆者・荘司 芳雄 氏/1989年11月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

金内 哲太郎 (かなうち・てつたろう)

武道家であり、眼科医。明治17(1884)年1月1日生まれ。荘内中学から愛知医学専門学校に進み、卒業と同時に勤務医。大正2年、郷里の旧十日町に眼科医院を開業した。弓道を東京の弓道界の第一人者・本田利実に師事し、市内に町道場を開設、同好者や荘内中学生に近代弓道を指導、庄内の弓道普及に努めた。鶴岡市医師会長、県医師会鶴岡支部長を歴任。昭和29年10月22日、70歳で亡くなった。

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