最上谷は江戸時代から船場町で船問屋を経営していた。屋号は最上屋で、姓を松田といい、長蔵を襲名していた。明治8年の戸籍法制定の際、最上谷と改姓した。
幕末の最上屋には男子がなく、姉妹2人だった。妹・兼代に明治4年、大宮村の農家・佐藤家の三男である三太郎を婿に迎えた。三太郎は体格が大きく人並み優れた腕力の持ち主で、草角力の大関を張り人気があった。その長男に生まれたのが直吉である。
直吉は父の強さに直情径行の一本気と、新し物好きの好奇心を持ち、それはのちに学問好きに発展した。小学校卒業と同時に、同じ船場町で回船問屋をしていた本間長三郎の本長商店に見習い奉公に出され、20歳までの5年間働いた。その後、家業の手伝いを始めたが文学青年となり、読書にふけるのを心配した父母は翌年21歳のとき清江を嫁として迎えさせた。
妻を迎えた直吉はようやく家業に精を出すようになった。ところが新潟港や秋田の土崎港のように背後に大工業地帯や産業を持たない酒田港は、鉄道の発達とともに、まず最上川舟下りの衰退から始まって、次第に外航の海運まで衰退の一途を辿った。こうした時勢を見抜いた直吉は、父祖伝来の家業を止めて、新しく藁(わら)工品問屋最上谷商店を開業した。当時は漁網をはじめとして、梱包資材に至るまで漁業はほとんど藁工品を使用していた。
直吉は太平洋側の三陸沿岸から取引を始めて北海道にも手を伸ばしていった。北海道漁業は大いに発展したため、それにつれて最上谷商店も大発展を遂げた。直吉は丁稚小僧から住み込んだ山田万吉が一人前になると支配人に抜擢し、北海道や樺太、千島列島に派遣し、販路を拡張した。
実業家としての地歩を固めた直吉は、ようやく余暇を得るようになると、今町に住んでいた漢学者・須田古龍の門をたたき、漢学、ことに漢詩の道に入った。往年の文学青年の情熱は漢詩の世界で大いに燃え上がり、事業や政治家として活躍する傍ら、碧水の号で692首に達する作品を残している。
昭和13年に土屋竹雨が広く全国から七言絶句を募集して編纂した『昭和七家絶句』に直吉の詩が7首も載せられていることは質の高さを示している。17年に作った「酒田八勝」は詩吟として愛唱されている。
自由民権思想の持ち主でもあった直吉は、大正6年から町会議員、市会議員、県会議員としても紋付羽織袴で出席したので、「紋付議員」のニックネームで親しまれた。
明治9年、最上谷三太郎の長男として船場町に生まれる。藁工品問屋最上谷商店をはじめ、次第に事業を拡張する。傍ら須田古龍について漢詩を学び、多くの漢詩を作る。また、大正6年42歳から政治の道に進み、町会議員、市会議員、県会議員として活躍する。昭和21年71歳で亡くなった。