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郷土の先人・先覚191 市政発展に大きく貢献

本間元也(明治17-昭和35年)

明治17年、松本の旧家・小華和(こばなわ)家に生まれ、山形師範学校を卒業し、教員となった。その後、中の口の本間といわれた吉則(よしのり)の娘婿となった。同家は3代光丘の長女・宮野に庄内藩士・町野重利(しげとし)を婿として迎えて分家した家で、元也で6代目である。

大正6年、弱冠24歳のとき町会議員に立候補し見事当選した。それ以来、本間家代表として昭和35年に亡くなるまでの43年間、町の助役や町・市会議員として活躍した。議会では地主代表の良識派といわれ、戦後は長老として重きをなし、市会議長も務めた。

27年8月、酒田・飛島間定期航路に瀬戸内海を走っていた船を買ってきて「おばこ丸」と名付けて就航させた。このとき元也は船の神、つまり船玉(ふなたま)様は女神なので、おばこ丸はふさわしくない、と反対意見を述べた。女神は妬み深いため、同性を嫌うという理由だった。

このように時々、民俗学的知識を披露して古老の面目を発揮した。有職故実(ゆうそくこじつ)に詳しく、皇族が酒田に来られた際には、その蘊蓄(うんちく)を傾けて重宝がられた。

酒田市史編纂は大正7年、松山の阿部正己(まさき)氏が町史編纂主務者となって始まった。正己氏は光丘文庫の一室に陣取って精力的に編纂を進めたが、議会側との意思疎通を欠き、膨大な「酒田市史稿」(光丘文庫蔵)を完成し、出版するまでになっていながら途中で辞退したため、編纂は頓挫した。間もなく太平洋戦争が起こり、編纂どころの騒ぎではなくなった。

このことを残念に思っていた元也は、同族の本間重三が市長であるのを幸いに、25年に、28年の市制施行20周年記念事業として市史を出版することを要望し、これが認められて翌26年1月、市史編纂委員会が設立され、元也が委員長となった。その結果、29年に酒田市史上巻が出版され、続いて下巻、年表と刊行された。

すると今度は歴史上もっとも大切なことは、歴史の根拠となる史料を出版することだ、と本間市長に要望し、そのため史料篇8巻の刊行をみたのである。

本間家の一族としては、本間光勇とともに農政、特に小作争議対策を担当した。一度、私はそのころの手帳を見せられたことがあるが、細かい字でびっしりと小作対策のことが書かれていた。

晩年の元也には古武士の風格があった。口述するから伝記を書け、と頼まれたことが懐かしく思い出される。

(筆者・田村 寛三 氏/1990年1月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

本間 元也 (ほんま・もとや)

地方自治の功労者。明治17年1月1日松山町松嶺の生まれ。山形師範を卒業して、長年教員を務めた。大正6年酒田町会議員に初当選、その後助役、昭和8年酒田市制施行とともに市議となり、議長に推され市政発展に活躍した。市制施行20周年記念事業として市史を出版することになり、昭和26年市史編纂委員会設立と同時に委員長に就任、市史の出版に貢献した。本間家の一族として農政を担当。昭和35年3月13日、76歳で亡くなった。

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