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郷土の先人・先覚195 軍医総監経て貴族院議員に

小池正直(嘉永7-大正3年)

小池正直氏の写真

旧荘内藩主の酒井家は別として、鶴岡出身で爵位を受けたのは、おそらくこの人くらいであろう。軍医総監として活躍し、貴族院議員にも選ばれた。

鶴岡の三日町(現・鶴岡市本町一丁目周辺)にあった小池家は医者の家である。祖父・仲郁(ちゅういく)は、鶴岡で初めて種痘(予防接種)を行った名医と伝えられている。米沢の出身で、若いころ蘭方医学を修め、ひところ米沢藩の藩医を務め、天保年間に鶴岡へ移住して開業した。医療技術は評判がよく、荘内藩に高く評価され、請われて藩医になった人である。

仲郁を慕う人は多く、頼って米沢から鶴岡に来て、そのまま住み着いた人もいたほどという。

正直は仲郁の孫。致道館に学び、漢学、剣道を修め、明治6年に二十歳で単身上京。英語をさらに勉強するためである。しかし、上京してから説得されて医学に方向転換。同年11月、第一大学区医学校(東京大学の前身)に入学した。

医家である鶴岡の生家は正直が医学を志したことを大歓迎、大きな期待を持ったことはいうまでもない。  毎月6年の貸費生(奨学生)となり、同10年3月には陸軍軍医生徒に選ばれ、同14年春には優秀な成績で東京大学医学部医学科の全科を晴れて卒業した。

卒業と同時に帰郷、当時鶴岡では東京の大学を出た医師を迎えるのは前代未聞、しかも名医・仲郁の孫ということで大評判となり患者が殺到したといわれている。

患者が相次いでいるところへ「至急帰京」との官命。帰郷してわずか1カ月間で東京へ舞い戻ることになった。これが軍医生活の始まりである。辞令は同14年6月24日付、陸軍軍医副。軍医生活は26年に及んだが、教育、行政関係が主だったとされている。

陸軍軍医学校の創設と同時に教官に抜擢(明治19年)され、衛生学を担当。同21年から3年間、ドイツに留学し、衛生学や生理学実験法など研究。ベルリンで開かれた第1回国際学会にも出席した。

26年秋に陸軍一等軍医正になり、陸軍省医務局第一課長兼軍医学校教官兼衛生会議議員。31年8月軍医監に昇進して同省医務局長に就任している。この前後に欧州やインド、台湾を視察した。

北清事変では同盟軍(イギリス、アメリカ、ロシア、フランス、ドイツ)の傷病兵を我が国の野戦病院に収容し、また、台湾を巡視した際、兵営、病院など施設の衛生面を改善しマラリアの予防に大きな効果をあげた。

医学博士を取得、陸軍大学教官を歴任し、陸軍代表で万国赤十字会議(明治30年)に出席。軍医総監(軍医中将)に昇進し、陸軍軍医学校長なども務め、40年11月に退官した。これまでの医療発展などに努めた功績に男爵の爵位が授けられ、貴族院議員にも当選した。

長男の正晁(1884-1941)も医学の道を進み軍医中将まで昇進、貴族院議員をした。

(筆者・田村 寛三 氏/1990年2月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

小池 正直 (こいけ・まさなお)

嘉永7(1854)年11月4日、鶴岡の医家に生まれる。東京の第一大学区医学校(東京大学の前身)を卒業し、陸軍軍医副。陸軍省御用掛兼釜山駐在を経て、陸軍軍医学校の教官。ドイツに留学して軍の衛生制度を研究、陸軍代表で万国赤十字会議(明治30年)に出席している。陸軍省医務局長、軍医総監、陸軍軍医学校長、野戦衛生長官など歴任。男爵、貴族院議員、医学博士。大正3年元旦、61歳で亡くなった。

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