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郷土の先人・先覚201 酒田が生んだ 独学の書道家

山口半峯(明治2-昭和14年)

山口半峯氏の写真

半峯は明治2年の元旦に酒田・筑後町のうどん屋彦八の二男として生まれた。名を彦惣といった。明治5年、村に不学の子なからしめんため学制が敷かれ、同8年酒田でも寺院や神社に各学校が設けられた。

7歳になった半峯は海晏寺にあった河雲学校に入り、そこでまだ17歳の若さで教師をしていた斎藤美澄(よしずみ=のちの上日枝神社社司)に可愛がられ、後には漢文を習った。半峯の近くの当時上日枝神社に神童・秀才の誉れの高かった美澄がおり、彼に学んだことが半峯の勉学意欲をかきたて大成するのに大いに役立った。

半峯は子供のころ、学校から家に帰ると2階の自分の部屋で暗くなるまで習字をしていた。その半面、近くの新井田川によく遊びに行き、ナマズを捕るのが得意だったという。顔魯公(がんろこう、がろこう)を好み、また主として多宝塔碑の拓本で独習した。

18歳ごろ、学力を認められて琢成小学校に奉職したというから、書道家としても相当の域に達していたものと思われる。

同22年、書家・西尾鹿峰(ろくほう)の来遊に際し、これに師事した。翌23年夏には上京して鹿峰を訪ね、主に書法の講義を受けて帰郷した。26年4月には文部省検定試験中等学校習字科に合格、酒田高等女学校の書道教師となった。その傍ら長三洲に師事して書道の研鑽に努めた。

31年には酒田に東北臨池会を設立し、地方書道の振興に尽力、また自宅に書道塾を開いた。ここで学んだ者には藤井伊一、斎藤菊太郎、亀川馬之助、佐藤常太郎らがいる。古文書読解の大家となった甲崎環は後輩の佐藤常太郎(受竹)を「めんごあんちゃ、入ってきたと思っていたら、どうしてどうしてめきめきとうまくなるもんだけ」と褒めている。商人町の酒田にもやっと書道風が盛り上がったのであろう。

しかし、43年に半峯は酒田を離れて上京し、私立中村女学校に奉職、ついで会計検査院に勤務した。翌年に東京において大日本臨池会を創立したが、まもなく大日本書道研究会と改称している。東京では閑院伏見両宮家をはじめ各華族家の書道御用を務めた。

大正3年9月より没年まで宮内省に出仕し、勅語などの貴重文書の浄書に当たった。また、東京商科大学の講師を兼務した。同9年には文部省から甲種国定書き方手本の揮毫を嘱託され、昭和6年には文部省習字科検定試験委員に推されている。昭和14年71歳で亡くなった。主な著書に『大正三字経』、『三体千字文』、『書道要訳』、『四体千字文』、『新案習字帖』、『商用書翰文』、『中等学校習字科教科書』などがある。

(筆者・田村 寛三 氏/1990年4月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

山口半峯(やまぐち・はんぽう)

書道家。明治2年1月2日、酒田の筑後町に生まれた。小さいころから書を得意とし、18歳で力量が認められて琢成小学校に奉職。さらに明治26年4月、中等学校習字科の免許を得て、酒田高等女学校に書道教師として勤めた。書道の大家・長三洲に師事し、31年に酒田へ東北臨池会を設立、地方の書道の振興に尽力するとともに、自宅に書道塾を開設した。その後、上京し、会計検査院に勤務、大日本臨池会を創立、旧華族家の書道御用、文部省から国定書き方手本の揮毫を委託された。昭和14年1月30日、71歳で亡くなった。

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