絵画がさかんになり、余暇を利用して絵画に趣味を求め、画架に向って絵筆をとり楽しんでいる人が多く、絵画展なども開催されて会場をにぎわせている。
池田亀太郎はこのような時代にはほど遠い明治時代、酒田で洋画を描いた最初の人といわれる。
亀太郎は文久2(1862)年11月、酒田の浜町で池田亀蔵の長男として生まれている。長じて22歳の時、明治17(1884)年10月に、我が国の油絵画家の先駆者・高橋由一(ゆいち)が酒田に来て、三浦屋旅館に10日間滞在している。
由一は文政11(1828)年、江戸に生まれ、川上冬崖の門人となって洋画を学び、明治5年には南校畫学掛に任命されて畫学を教授し、同6年は濱町に天絵(てんえ)社という畫塾を開いて門人を養成した日本洋画界の巨匠である。有名な「鮭図」は山形美術館に所蔵されている。
亀太郎と由一の酒田での出会いや指導を受けた記録は明らかではないが、亀太郎の作品には、由一の画風が大きく影響されていることは確かであるといわれる。
その後、亀太郎は上京して写真とクリーニングの技術を習い、写真は肖像画を描くために習ったものである。やがてクリーニングの技術は息子に伝え、自分は船場町近くに写真館を開業した。ここが酒田の写真館の草分けといわれている。
そのようなところから亀太郎の絵は肖像画が多く、酒田の名士を絹本彩色・麻布油彩などに描いている。それに高橋由一の影響からか、鮭にかけては抜群の腕で「塩鮭」は有名である。
昭和52(1977)年4月、本間美術館で「池田亀太郎遺作展」を開いたが、その時のパンフレットに出品目録が載っているので、一部を参考までに紹介したい。
前述した「塩鮭」のほかに、「日本海大海戦図(旧本間家本邸小襖)」、「伊佐治八郎(下日枝神社拝殿)」、「飛島するめ(飛島旅館・本間家蔵)」、その他、肖像画には中村太助、池田藤八郎、池田亀蔵夫婦があり、亀太郎の作品は写真より似ているという。しかし、どうしたものかどの絵にも本人の署名がない。ところが飛島で描いた本間清治郎夫婦の肖像画(本間家蔵)の清治郎の絵には、「大正元年9月池田亀太郎」と立派に署名され、落款まで押されている。
日本の化学工業界の大御所であった池田亀三郎は亀太郎の末弟である。亀太郎は大正14(1925)年2月、63歳で亡くなった。
画家。特に酒田で洋画を描いた最初の人といわれている。酒田・浜町の生まれ。画風は酒田を訪れた我が国油絵画家の先駆者・高橋由一の影響を受けているといわれている。その後、東京で写真技術を習得し、酒田で写真館を開業、これも酒田では写真館の草分け。写真技術は肖像画を描くために習ったもの、といわれているだけに、絵も肖像画が多い。また鮭を描いても抜群の腕前と評価されている。