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郷土の先人・先覚207 法然上人絵伝を描いた画僧

市原圓潭(文化14-明治34年)

初代・市原平三郎は明和4年酒田に生まれ、はじめ繰綿を業とし、のち大正寺町で太物屋を営んで巨利を博し、酒田一の呉服商となった。圓潭は平三郎の四男として生まれ、祐助といった。子供のころから画をかくことが好きで、人物、花鳥を描いて飽きることがなかった。

春になって雪が消えると子供たちは競って凧を揚げたが、圓潭少年は近所の子に乞われてよく武者の凧絵を描いた。12歳のとき母を失い、彼は悲しみのどん底に突き落とされ、ご飯もろくに食べなかった。この不幸が後に彼が仏門に入る遠因となった。

天保2年、15歳のとき密かに家を出て江戸に上り、郷土の先輩・狩野了承、須藤鴻挙の指導を受け、狩野派の粉本(先人の画をうつしたもののこと)を模写し、ほぼ描き方を悟った。23歳のとき、いったん郷里に帰り、狩野探淵の門に入り画家としての道を歩みたいと父兄に願い、許されて同11年再び江戸に上った。

探淵の門に入った彼は日夜画業に精進し、目覚ましい進歩を遂げた。探淵も彼の人柄や才能が非凡であるのを見抜き、家伝の秘訣を伝え、29歳のときには淵潭齋守純の名号を与えた。しかし、彼はこれをもって満足せず、広く各流派の画風を極めようと決心し、探淵の門を辞し、鶴岡の田元小路に居住して画を業とした。

嘉永元年、探淵から江戸に来るよう、との手紙が来て三度上京した。このとき菅原為泰(ためたか)と知り合い2人で京坂を歩き、古書画の鑑賞をした。知恩院では法然上人絵伝48巻を臨写し、大いに画境を進めた。同年、たまたま大徳寺で開山大燈師忌を営み、禅月大師が夢で感得して描いたといわれる五百羅漢百幅を展示した。2人はこれを観て大いに感嘆し、後日必ず臨写しようと誓った。

間もなく郷土に帰ったところ、鶴岡市常念寺住職・廓霊(かくれい)から、法然上人絵伝12幅の揮ごうを依頼され、心血を注いで筆を振るい2年後に完成した。描き終えると圓潭は鳥海山二の滝に行き、終日瀑布に対した後、山を下りて蕨岡村の今野茂作を訪ね、翌日、人を実家に送り出家を父に願った。ちょうど父・平三郎は病床にあったが、圓潭の志が固いことを知ってこれを許した。

喜んだ圓潭は鶴岡大督寺(浄土宗)の俊明について剃髪得度し、淵潭を改めて圓潭と号した。時に35歳であった。彼の場合、宗教的心(信)境と画境が車の両輪のように磨かれ合い画僧として大成した。後年、京都に上り、田能村直入、日根対山、村山平牧、藤本鉄石らと交わった。特に半牧や鉄石とは親しく、ために勤皇家と目されたほどである。明治21年ごろ一時酒田の千日堂前に住んだという。

(筆者・田村 寛三 氏/1990年5月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

市原 圓潭 (いちはら・えんたん)

画僧。文化14(1817)年2月28日、酒田生まれ。小さいころから絵を描くのが好きで、江戸に上って絵師・狩野探淵に師事、画家の道に入った。35歳のとき鶴岡の大督寺で仏門に入り画僧に。京都の知恩院で修業する傍ら絵画を研究。画家・日根対山、村山半牧らと交際を深めた。文久3(1863)年に帰郷して大淀川(現・鶴岡市)の淀川寺の住職になった。明治34年6月1日、85歳で亡くなった。

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