庄内砂丘地上にある西山の官有地払い戻し運動で活躍した指導者の一人に、袖浦村大字黒森(現・酒田市)出身の佐藤民蔵がいる。
佐藤家は代々助右衛門を称し、黒森村の草分けで、永徳年間(1381~84)の移住と伝えられている。寛文12(1673)年の文書によっても、その名が確認できる。村役人も勤め、宝暦2(1752)年の西山植付絵図に肝煎助右衛門の名が出ている。子孫の佐藤和夫さんの話によると、庄内藩主が狩猟で当地に来た際の宿泊所になり、名字帯刀を許されていた。田20町歩を所有する豪農で、更に麹屋も手広く経営し、その収益も田地20町歩分の収益に匹敵したという。
明治9年、政府の地租改正によって西山一帯が官有地となった。この地一帯は、坂野辺新田(現・酒田市)佐藤藤太郎右衛門や助右衛門などが苦労して植林した土地であった。それが官有地になると免税になり、砂防林から上がる収益も国と村民が分け合うという政府の言葉によって官有地編入となった。
ところが、官有地となるや村民が木材入用として払い下げを出願しても、許可が出なければ伐採できず、大変な不便を被ることとなった。特に明治16年6月の黒森村大火の際は用材不足で、村民は仮小屋に居住する有様であった。その窮状を見かねた民蔵は翌年山形県庁に出掛け、県令に西山を三官七民の部分林にするよう願い出ている。
民蔵の度重なる陳情とその労が実を結び、明治19年3月30日付をもって、三官七民の申請が許可されている。出願中にこの地が民有地であった証拠が新しく発見されたことから、明治31年3月19日農商務大臣に民有地引き戻しの申請を出したが、明治37年11月29日不許可となった。
翌38年2月13日付で、農商務大臣を被告にして、民有地引き戻しの行政訴訟を起こすこととなり、訴訟代理人は水戸の士族で、国会議員であり弁護士の関信之介、その補佐人に民蔵がなった。
原告団は佐藤民蔵ほか307名で、民蔵は坂野辺新田の佐藤滝蔵と共に度々上京、神田神保町に長期に渡って宿を取り、裁判に対処している。その苦労と費用は大変なもので、民蔵自身多額の費用を負担し、家事も捨てるほどであった。
民蔵らの努力によって、明治45年7月10日、裁判は民蔵側の勝訴となり、黒森、坂野辺新田、十里塚、広岡新田一帯の西山は官有地から民有地になった。隣の浜中(現・酒田市)でも同じころ民有地引き戻し運動に成功している。
農業。安政3年9月10日、助吉、常の長男として黒森村に生まれる。明治7年の黒森学校の開校では学校世話掛として尽力。地区の教育や産業の発展に功績が大であった。西田川郡の郡会議員となり、副議長としても活躍。鶴岡で開かれる郡会に、冬では奉公人3人にひかせたそりに乗っていったという。民蔵の弟に画家の佐藤竹雲、書家の佐藤正堂がいる。酒井調良撰文の寿碑が明治30年に建立された。大正9年6月14日に亡くなった。