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郷土の先人・先覚210 漁業開拓に大きな足跡

尾形六郎兵衛(明治34-昭和48年)

尾形六郎兵衛氏の写真

少壮青年期に水産実業界に活躍し、終戦直後参院議員として政界に出馬、晩年には独特なく文筆活動でその生涯を72歳で終えた尾形六郎兵衛さん(幼名・昌作、尾形家7代目)の業績、その人となりを語るのは本来、60年来の友好を続けた笹原儀三郎さんが適当であろうと思う。昭和48年8月2日、尾形家の菩提寺加茂港の少林寺で、日本海水産株式会社の社葬以下もろもろの水産関係団体の合同葬で、その生涯を称え、追悼の尾形さんに相応しい盛大な葬儀が行われた際、笹原さんの弔辞の一節に「君の歩きぶりには大人の面影がありました。ソフトをややあみだかぶりにして、両腕を前後に大きく動かし、胸を空の彼方に向けて悠々と迫らず大道を闊歩しました。(中略)はたの批評が何と言おうと、そんなものには一切騒がず、泰然自若たる態度でした」という言葉がある。

尾形さんの生前の風姿を知る人なら、笹原さんのこの言葉はそのまま納得するに違いない。尾形六郎兵衛さんは明治34年加茂生まれ、青少年期に千島漁業開拓者の父の急死に遭い水産業の家業を継いだ。これが尾形さんが水産業の事業家として成長してゆくスタートであった。先々代および先代が開拓した樺太、千島、北海道の各地に数々の水産会社を創設。私の記憶で特筆しておきたい事業は、当時の中国の水産情勢を視察し、昭和14年中国南部方面の海洋資源開発の目的で海南島に進出したことであった。沿岸、海外漁業の今の不振を故人はどう見ておられるのだろうか。戦後第1回の参議院議員の地方選挙に当選、昭和27年山形県漁業協同組合連合会会長を辞した事を契機として悠々自適の趣味の文筆活動に入った。

それは事業家、政治家らしい匂いのない、ソフトでユニークな例えば「六十年目の自画像」、「岩手の歌人と山形の文豪」などの数々の著書を出版している。特に「後董」「藤の花」は幾度読んでも感銘深い記録である。

「藤の花」に少し触れると、尾形さんが72歳の生涯を昭和48年7月に東京歯科大学附属病院で閉じる主因となった放射線骨髄炎の兆候が現れ始めた約1年間、死去の1週間前まで書き続けた日記をピックアップし、ご家族の心情を添えて長男・昌夫さんが編集した小冊である。

『五月十日(木)一日休養シタ、食欲ガ全クナイ。性欲ガナクトモ、食欲ガナクテハ人間ハ生キラレヌ。生命が燃え尽きる寸前ではなかったかと思う(昌夫さん註)』

尾形さんの著書「六十年目の自画像」で92歳で亡くなられた母堂を偲んで死の状況を「私の母の死も初秋の太陽が彩って沈むように…」と書いている。尾形さんも母堂の春恵さんと同じ平安な極楽浄土への旅立ちであったろうか。尾形さんは昭和41年藍綬褒章、同46年に勲三等瑞宝章を受けている。

(筆者・秋野庸太郎 氏/1990年5月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

尾形 六郎兵衛 (おがた・ろくろうべえ)

加茂の旧家尾形家の7代目。16歳のとき北洋漁業で活躍した父が急死したので荘内中学卒業と同時に家業の漁業を継ぎ襲名。欧米を周遊、知識を広め、沿海州の底引き漁業、南方のマグロ漁業などを行い、さらに中国に渡って海南島で漁場開拓に努めた。県水産業会長、県漁協連合会長など歴任して昭和22年参院議員に当選、電気通信政務次官。相撲好きでも知られ、日本相撲協会の木戸御免。鶴陵文化懇話会会長を務め、文豪・高山樗牛、田沢稲舟の顕彰などに尽力した。72歳で亡くなった。

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