終戦を契機として我が国の労働運動は燎原の火のごとく広がり、各地に労働組合が結成された。
当時酒田には国鉄労働組合、全逓労働組合、鉄興社労働組合など多くの組合が労働権を旗印に活動していたが、その中で何といっても国鉄労働組合酒田支部は当時の組合運動の先鋒でもあり、それを指導したのが登坂繁である。
登坂繁は大正4(1915)年新町(現・酒田市松山地区)に生まれ、長じて酒田の登坂家に養子になっている。やがて昭和13(1938)年、13歳で当時の国鉄札幌鉄道局、苗穂工機部に就職して技術畑を歩み、終戦の翌21年に酒田機関区に転勤している。
その頃から登坂の胸中には労働運動に燃えるような情熱を抱いていたようで、同25(1950)年に国鉄労組山形の専従となり、本格的に組合運動に没頭していった。
やがて、国鉄の機構改正によって新潟地方本部の専従に変わり、以来同27年の専従解除まで新潟において、新潟地本関係の組合運動を精力的に指導している。その頃彼の傘下にいた人たちは、一本の筋が通った信念の人で、剛というよりむしろ理論に優れていたが、理論派にありがちな冷たさがなく、温かい包容力のある人だ、と人物評をしている。
そうした力量を買われ、同28年には国鉄労組全国機関車協議会事務部長として専従、国労本部の中枢で活躍している。こうした活躍は職場内に留まらず、酒田市議会議員を目指し、同30年2度目の出馬で見事に当選、国鉄職員と市議会議員の二足のわらじを履き、正しい理念のもとに革新の道を歩んでいる。
国鉄を退職したのが同46(1971)年3月で、その後も引き続き市会議員に当選、同54年まで連続6期24年間議席を有し、その間副議長2期、議長を1期務めている。
こうして書いてみると、その生涯は組合運動と市会議員が大半のように思われるが、日常は油染みた作業服で旋盤やボール盤を使い、またSLの下に潜り検修作業に汗を流す労働の姿がある。彼はこうした尊い労働の中から得た正しい信念に基づいて組合運動の先頭に立ち指導した、戦後の地方労働の先駆者であった。ただ残念だったことは、同54年の市議選でわずか1票の差で涙をのんでいる。
亡くなったのが同58年11月。68歳だった。
国鉄職員。酒田市議。大正4年松嶺町(現・酒田市松山地区)生まれ。昭和13年、国鉄札幌鉄道局に就職、終戦後の21年、酒田機関区に。25年に国労山形の専従となり、組合運動に没頭。当時の組合運動の先鋒であった国労酒田支部を指導。また、30年から54年まで連続6期、24年間酒田市議を務めた。この間、副議長2期、議長1期を経験。58年に68歳で亡くなった。