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郷土の先人・先覚214 実践的農業者 露地メロン育種の先覚

斎藤松太郎(大正11-昭和56年)

メロンの季節が訪れると、わが国の露地メロン育種の先駆者であった鶴岡市七窪の故斎藤松太郎さんの業績が懐かしく思い出される。

砂丘地農業の先駆者として慕われた故斎藤松太郎さんの顕彰碑が、県立砂丘地農業試験場の正門真向いに建立されている。

斎藤さんは、路地メロンの育種、砂丘ビニール水田、砂丘畑の自動灌水、ハウス栽培、庄内温室花き栽培などの創始者であり、その業績を後世に伝えようと野辺送りの日に有志の発案で具体化された。地区農業者はもちろんのこと、北海道や京都など県外にいる地区協力者など400人の寄付金によって昭和57年11月28日に建立されたものである。碑には数々の業績が刻まれている。

斎藤さんとの出会いは、私が砂丘地試験場に配属になった年である。その当時、砂丘地では、サツマイモ、麦、菜種などの時代であったが、これからはメロンと花の時代であると、将来を見通し、自力で古材を使ってガラス温室を作っている最中であった。暖房は温室内に風呂を作り通路2本の下を煙突にしてオンドル形式にするなど独創的なものであった。また温室の一隅に研究室を設け、野菜花物に関する図書が所狭しと積み上げられていたのには驚いたものであった。

七窪の露地メロンの歴史はかなり古い。七窪メロン研究会誌の中に「メロンの芳香をこの白砂青松の砂丘に送ってきたのが、たしか大正七年頃をもって嚆矢とする」とある。スイカの一代雑種にヒントを得て、短期間で効果を上げるため一代雑種を利用し、約300種に及ぶ交配を成し遂げ、10年間の労苦の結果、「ライフメロン」が名称登録指定され、今日のわが国の露地メロンの基礎を築き上げた。その後はアメリカに輸出する品種を作りたいと情熱を燃やしていたが、体調を崩し58歳の生涯を閉じたことは誠に残念でならない。

また、飯米があったらもっと思い切った仕事ができるということで、同好者とビニール水田を造成し、その年10俵を生産し、周囲の平場の生産者をうならせ、一時はメロンよりビニール水田で有名になり、全国にテレビ放送されたことがある。

斎藤さんの人生哲学は農業は儲けるものではなく、趣味に生きる農業であり、楽しみながらやるものであるということであった。いずれにしても師と仰ぐ素晴らしい実践的農業者に出会ったことで、試験研究は生き死にをかけた農民の発想を科学するものであることを学んだ。

(筆者・若松幸夫 氏/1990年6月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

斎藤松太郎(さいとう・まつたろう)

農業。大正11年鶴岡市七窪に生まれる。西郷高等小学校高等科卒業後、砂丘農業試験場勤務。昭和17年近衛大連隊に現役として入隊、終戦後農業に従事した。砂丘農業の零細を憂い、将来の発展と振興に意を注ぎ、特に在来の露地メロンの産地形成に情熱を燃やした。その品種育成には300種に及ぶ交配種のなかよりライフメロンを選抜、昭和39年7月に名称登録指定され、今日のわが国の露地メロンの基礎を創った。また、戦後の食糧難を克服するため、砂丘地にビニール水田の発想を試み、100ヘクタール余の水田を開発。当時の食糧政策に大きく貢献した。さらに砂丘地の園芸作物の創意工夫を駆使しながら広く庄内砂丘地の園芸栽培に尽力した功績が認められ、昭和34年の庄内百万石祭りで、農事功労者として表彰を受けた。

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