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郷土の先人・先覚217 漆塗り一代の名工

小山安之助(明治18-昭和60年)

小山安之助氏の写真

親方から初めて五段重箱の塗りを命ぜられた安之助青年は真ん中向きの性格をそのまま、今まで習い覚えた全ての技術を傾け、神仏に祈願し1カ月かけて完成した。

明治の末から大正にかけての徒弟生活は厳しく辛かった。職人はみんなツボツボは人に隠して工夫した。仕事は盗んで覚えろ、と言われた。

兄弟子の中に意地悪なのがいて、人の良い安之助を何かと小突いた。真面目な中にも茶目っ気のある彼は、例の兄弟子が必ず五段重箱をそっと見るに違いないと見当を付け、中に水を入れて、逆さまにして棚に置いておいた。

果たして兄弟子は彼の留守を狙って棚に手を伸ばし、重箱を取った。途端に頭からザァーっともろに水を浴びた。こうして密かに日ごろのうっぷんを晴らしたという。

その後、今町の小松菓子店の主人・又三郎から五段重箱を頼まれたときも、作品に水を入れて逆さに伏せてみせ「ほほう、水も洩れねえもんだのや」と感服する又三郎に「五段の重箱全部を上下前後重ね合わせ、水を入れて引っくり返しても同じことです」といった。

安之助は明治18年、現在は日和山公園にある六角灯台を作った名工・佐藤泰太郎の二男として弁天小路で生まれた。泰太郎は3人の子が同じ職に就けば争いのものと考えたのか、あるいは安之助の内なる綿密で、丹念で派手を嫌う塗り師向きの資質を認めたものか、15、16歳になると上内匠町の佐藤文治という塗り師の家に弟子入りさせた。師匠の母親は酒田特産のケヤキ塗りを発明した一で、この人から口でいろいろ指導を受けた。ここに4、5年いて、一応の徒弟修業を終えてから旅修業に出た。

まず、新潟に行き、山崎という酒田出身の塗り師に身を寄せた。その間有名な「嶋の金刀羅様」に技量上達の100日の願をかけた。ここに約8カ月間いて、待望の会津若松へ向かった。会津若松は400年前近江日野から転封した領主蒲生氏郷が日野椀の製法を移して育成して以来、代々の領主が漆器生産を奨励したため漆器王国とうたわれていた。

安之助は若松でも著名な工匠の懐に飛び込んで、ここでみっしり3年間修業を積み、ひとまず大成をみた。

塗り師として名人芸を身につけた彼は、弁天小路で開業したが、彼の真価を知る人は少なく、名匠として孤高を守り、太平洋戦争中に塗り師の道を自ら離れ、松石という号を持って篆刻や彫刻を楽しんだ。90歳まで自転車に乗り、昭和60年6月21日101歳で亡くなった。

(筆者・田村寛三 氏/1990年7月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

小山安之助(こやま・やすのすけ)

明治18年8月、名棟梁とうたわれた佐藤泰太郎・雪江夫婦の二男として弁天小路に生まれた。3つ年上の兄・安吉が家業の大工職を継ぎ、安之助は15、16歳から内匠町の塗り師・佐藤文治に弟子入りし漆塗りの道を歩いた。ここに4、5年いて徒弟修業を終え、その後、新潟に9カ月間滞在し、さらに本場の会津若松で3年間腕を磨き、さらに東京に出て視野を広げた後、酒田の弁天小路で開業。一代の名工と称された。

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