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郷土の先人・先覚222 世界最初のバインダーを発明

石井梅蔵(明治29-昭和51年)

石井梅蔵は農機具の発明、改良に多大の功績を残した優れた発明家、事業家であった。

子孫の話によると、梅蔵の父の菊治郎は大工と製材業を兼業、明治中頃には木材の買い入れで財をなし、水田五、六町歩を有する地主となった。梅蔵は父の弟子広野村(現・酒田市)の大工職の下で、大工の修業を積んだが、大工仕事の限界を感じたことと、農民の重労働を機械化によって軽減したいという思いから農機具生産に踏み切っている。それは大正15年1月3日とされている。

農機具の発明改良のためには、吹雪の夜も火の気のない工場の2階で夜半に至るまで、設計図書きに没頭した。その研究の結果は、昭和39年で農機具関係特許所有者が65件もの多きに達している。

数多い農機具の発明の中の一つに除草機がある。当時、田の草取りは、がんづめ(農業用の道具)を用い、四つん這いになるため、農民にとって大変な重労働であり、稲穂が目にささる危険性もあった。これに目をつけた梅蔵は立ったまま除草ができる人力用水水田中耕除草機を作り、農民の重労働と危険を解消している。

二つ目にカッターがある。農家にとって藁は家畜の飼料や堆肥となる重要なものであるが、これを細かく裁断するには押切りを使っていた。梅蔵はその機械化を試み、実験と試作を繰り返しながら実用化に成功。昭和3年に人・動力兼用のフライホイル式カッターとして特許を受けている。のちシリンダー型カッターと発展し、全国的に使用されるようになった。

三つ目の重要な発明にバインダーがある。稲麦刈取収束機と称されるもので、世界最初のバインダーであり、昭和33年に特許が申請され、同35年に登録されている。

その他に、米選機、動力脱穀機、半自動籾摺機、製縄機など多くの発明改良を行ってきたが、毎時30俵の処理能力のある籾摺機の開発中の昭和33年、籾が目にささり、東京の大学病院で2回の角膜移植を受けながらも、遂に失明。失意のあまり幾度か死を決意したが、心の底に「欲心を去る」ことが浮かび、再起することができた。

梅蔵は目が見えないながらも、建築物の模型や彫刻品の創作に情熱を燃やし、五重塔、陽明門、金閣寺、亀と兎など数多くの工芸品を残している。眼が見えないのにどのようにして作るのかと聞かれ、「五体で見ます。体当たりですよ」と答えている。信恵夫人の話によると、羽黒の五重塔の模型を作る時、大工の説明を聞きながら、雨の中、自分の身体、手を使い、五重塔の寸法、形を測ったという。

(筆者・須藤良弘 氏/1990年8月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

石井梅蔵(いしい・うめぞう)

農機具発明家・工芸家。明治29年新堀村大字局(現・酒田市)に石井家5代目として生まれる。数多くの特許権を受けたが「世の為、人の為」を念頭に置いていたので、乞う人があれば喜んで特許権を与え、進んで公開指導している。失明後創作した天守閣、経蔵、蛙の車夫は昭和35年、天皇・皇后両陛下によって天覧。バインダーとカッターの発明で同44年黄綬褒章、同51年勲五等旭日章など多くの賞を受けた。酒田発明協会長など多くの役職についている。昭和51年に亡くなった。

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