南平田村新山(現・酒田市平田地区)の山口弘は、庄内の養蚕と和牛飼育に大きな功績を残した1人である。新山には古代から天台修験系の新光山最勝寺(新山大権現)の大道場があり、山口家はその地にある九坊の一つにあの山本坊で、大先達も勤めた由緒ある家柄である。
山口弘は明治44年山形県立荘内農学校を卒業、同年8月東京西ケ原蚕業講習所の助手となり、大正2年4月帰郷、南平田村養蚕技術員となり、養蚕指導を行っている。彼が書いた大正7年の「秋蚕養蚕日誌」には、給桑時刻、天候、給桑量、給桑回数など細部にわたって記されている。
給桑時刻は午前2、3時から午後11、午前零時に及び、寝過ごしも書いている。掃立より3日目の7月21日の記録をみると、「午前三時晴、風向東、風力和、室内温度七十六度、給桑量八円」、「午前三時ノ給桑ハ遅レタル気味アリ、二時頃適当ナラン、八匁ニテハ不足ノ傾アリ」、御膳8時から東風が強くなり、「東風ニテ蚕座ノ乾燥甚シ、過乾ニ付撒水」とある。
山口は積雪寒冷地帯の稲作単作農業は冷害の際、大打撃を受けるとし、有畜農業経営を主張、村内の有志に働きかけ、昭和7年に南平田村有畜農業実行組合を組織している。
手始めに、和牛の先進地である鳥取県から同年11月牡1頭・牝7頭を導入しているが、系統正しい和牛飼育では庄内において最初のこととされている。和牛に目をつけたのは、日本で昔から農業と共に歩んできたのは農業用牛であり、強健で死亡率が低い、役用になる、肉質良好で肉の歩留まりが多い、濃厚飼料の必要量が比較的少ない、早熟で投下資本の回転が早い事にあった。彼は和牛の効率的飼育や優良種の繁殖、さらに和牛登録事業を進め、ようやく昭和25年承認されると、山形県の登録第1号となった。
子孫の話では、飼料はなるべく自給とし、養蚕に、こぬかなどを混ぜて与えた。牛を家族の一員として扱い、いつもなでて飼育することで良い年になったという。
購入した牛を組合所有とし、これを利用した組合員は利用料と払うものの、子牛1頭か2頭生産すると親牛は利用者の所有となった。昭和28年に村内の飼蚕頭数320頭、その内合格牛が141頭に達している。
彼は昭和12年山形県畜産販売農業協同組合和牛部長、同14年飽海郡畜牛畜産組合長にもなり、優良和牛を生産し、山形牛、あるいは庄内牛の名で、この地方を全国的な和牛供給地にしたいと考え、生涯活躍したことで、「和牛の山口」とまでいわれた。
農業。明治25年南平田村大字楢橋字新山に守次の長男として出生した。山口家18代目。温厚で真面目、信仰心厚く、いつも世のためを考えたという。南平田村農業協同組合長、県信用農業協同組合連合会理事、全国和牛協会総代など多くの役職についている。昭和35年9月12日、68歳で亡くなった。