浮世絵師3代目豊国の錦絵版画の中に残っている力士・常山五郎治は、文化9(1812)年飽海郡小泉村(現・酒田市八幡地区)の庄司甚右衛門家の二男として生まれ、幼名を甚五郎という。18歳のころまで近くの本楯刈屋村に若勢奉公をしていた。怪力の持ち主で、次のようなエピソードがある。
若勢給料を貰い米俵5斗俵(75キログラム)5俵を背負い、高下駄を履いて約2キロの道を悠々として実家に帰ったという。
天保3(1832)年、27歳のときに江戸に出て、雷権太夫の門に入り、同6年雲珠巻の名で幕下9枚目(十両格)に付出された。同9年2月東方幕下12枚目の場所で鶴ケ嶽と改め、2代目常山五郎治となったのが4年後の同13年東幕下5枚目のときである。
初代常山は出羽ノ海部屋に属し、出身地の名をとって温海嶽と名乗る。その後、鶴ケ嶽から寛政4(1792)年11月、常山五郎吉と改め、同6年27歳で入幕して花道山、享和元(1801)年には市野上と改め、同2年出羽一門中、最初に大関となった。その間、雷電、小野川の強豪を破り江戸中の人気を集めた。35歳で没し湯温海の長徳寺に葬られ、同寺に花頂山の碑がある。
2代目常山の入幕は天保14年東前頭8枚目に位置し、さらに嘉永3(1850)年に西小結、同6年には自己の最高位で西の関脇になる。前頭2枚目の時回向院の本場所で、横綱秀ノ山に猛烈な頭突きを食らわせ勝ったものの、前歯をへし折ったという手柄話がある。
安政3(1856)年、立田川清五郎の年寄名を襲名して二枚鑑札で土俵を務めたのがわずか3年間。同6年48歳で引退したので立田川より常山の四股名で知られている。門人には大関となった朝日嶽鶴之助がいる。慶応3(1867)年56歳で没する。
2代目常山の実兄も江戸に上り平田町出身の越の戸に入門、泉川甚太郎と名乗り天保4(1833)年幕下まで進んだが、同6年巡業中に三河国で水死している。
ところで、酒田市東大町三丁目に常山五良治墓と彫られた文久2年の墓がある。これが3代目の常山であるが、この力士は東田川郡櫛引出身で2代目の弟子とも、また小泉出身の泉川、2代、3代常山は3人兄弟ともいわれるがはっきりしない。
力士。飽海郡小泉村生まれ。天保6年10月場所、雲珠巻(うずまき)橋之助の名前で幕下9枚目(十両格)の名で付出され、6場所後に鶴ケ嶽峰右衛門、さらに5場所後に常山五郎治と改名。入幕は天保14年10月場所で、嘉永6年11月場所から7年11月まで西関脇を務める。浮世絵師3代豊国の錦絵のモデル。安政3年11月に立田川清五郎、さらに四股名を変え、同6年1月に西前頭5枚目を最後に48歳で引退した。幕内在位は17年。