山田玄太郎と言っても知る人は少ないかも知れない。しかし、玄太郎は小倉金之助、伊藤吉之助とともに酒田が生んだ誇るべき大学者である。
玄太郎は明治6年に本町六丁目の廻船問屋・山田太右衛門の長男として生まれた。山田家は加賀屋と称し、寛政2年からは三十六人衆となり、また問屋頭を務めたほどの豪商であり名家である。
玄太郎は山田家の8代目に当たるが、札幌の東北帝国大学農学科(現・北海道大学農学部)を明治31年に卒業した。卒業論文は「玫瑰天狗巣病菌及び其寄生に及ぼす影響」であった。
指導教授が銹菌学(しゅうきんがく・高等植物に寄生する担子菌類に属する菌。種々の胞子を生じ、うち銹胞子は宿主の体外に現れるので、病植物は錆びたようにみえる)の権威である宮部先生だったことによるが、玄太郎は生涯にわたって銹菌学を研究した。ことに赤星病菌の分類学的研究では大きな成果を上げ、植物病理学の泰斗と称されるに至った。
卒業すると盛岡高等農林学校に奉職、間もなく教授に昇進した。明治36年には農学博士となり、大正4年に西ドイツのボン大学に留学している。同10年1月、鳥取高等農学校が創立されると、その初代校長に迎えられた。時に46歳であった。
札幌時代、クラーク博士の「少年よ大志を抱け」に影響された玄太郎は大正リベラリスト(自由主義者)の1人であり、開校の訓辞で「これから諸君を紳士として扱う」と宣言したように、学生の自主性や人格尊重を方針とした。温厚な人柄は当時の独裁者的条件も必要とする校長としては柔和に過ぎる点もあったが、自由で学究的雰囲気の同校学風の源泉となった。
玄太郎は学校の要素は校舎と先生と学生であるとの考え方から教授陣には若手の逸材を集め、研究設備の充実、研究発表機関、例えば鳥取農学会の創立など、着々と実績をあげた。
その風貌から「だるま」とあだ名され、だるまは同校のシンボルとなっただけでなく、彼は鳥取市民からも尊敬された。
昭和11年、北大教授となって札幌に移住。同18年に71歳で亡くなった。
学者。明治6年、酒田三十六人衆の1人、回船問屋・山田太右衛門(加賀屋)の長男として生まれた。札幌の東北帝国大学農学科(現・北海道大学農学部)を卒業。指導教授の影響もあり、生涯にわたって銹菌学(しゅうきんがく)を研究。特に赤星病菌の分類学的研究では大きな成果をあげ、植物病理学の泰斗と称された。鳥取高等農業学校の初代校長。学校の要素は校舎と先生と学生であるとの考えから、教授陣には若手の逸材を集め、研究設備の充実などに努め、実績をあげた。風貌からだるまとあだ名され、だるまは同校のシンボルともなった。昭和11年に北大教授となり、同18年に71歳で亡くなった。