医師として名を成し、また点字楽譜の祖と仰がれた佐藤国蔵は、慶応3年8月、父・意泉、母・亀の二男として飽海郡六日町村(現・遊佐町)に生まれる。系図には医者が多く、父も医者として遊佐郷民に意泉さまと呼ばれ慕われた。
明治16年、国蔵は医学修業の大志を抱いて16歳で上京、順天堂の佐藤舜海の門に入り、翌17年には、東京大学医学部別科を受験し見事に合格している。
別科医学生2年の晩秋のころから視力に変調を覚えるようになったが、無事大学を卒業、前期医術開業試験に合格の喜びもつかの間、後期試験を前にして眼病が悪化、断腸の思いで試験を断念している。
その後、決意を新たに東京盲唖学校に入学、鍼の術を習得する。そのころ寄宿舎の舎監長で、点字翻案に取り組む同校助教授・石川倉治の情熱に私淑。これが国蔵の人生を変える動機となる。
明治26年同校を卒業。今度はバイオリン科に再入学して点字楽譜にその才を発揮する。『点字発達史』には「…同校鍼按科出身佐藤国蔵が『国民唱歌集』(小山作之助編纂)を点訳した。これが我が国における点字楽譜の最初である…」と業績を称えている。
その後眼病は手術により治癒、奇跡的に開いた視力快復に心機一転、医業開眼にかける新しい旅立ちでもあった。まず順天堂に舜海院長を訪ね同院の医局に勤務、明治29年の医師開業の後期試験にも合格した。
国蔵は同30年、父の「順仁堂」を継ぐため、刻苦に耐えた14年の東京生活から、鳥海山麓に抱かれた故郷に帰ってきた。「意泉さまの若先生が帰ったぞ」「若先生は東京大学医学部の出だ」と村中に知れ渡り、国蔵もこれに応えて、医療体制の整っていない遊佐地域や近村を昼夜を厭わず駆け回り活動している。
一方、地元の社会事業にも多く貢献しており、父・意泉の「順仁堂」“医は仁なり”の信念は、国蔵によって立派に継承された。
明治42年6月に没し享年43歳。最後に『佐藤国蔵の生涯』の一説を引用させてもらい、その人となりを偲ぶ。「村人達はバイオリンに聴きほれた(中略)国蔵家の門から稲田を越え、月光川を越して鳥海山の斜(なだ)りの村吉出まで響いたということは、遊佐村のほとんど全域に、文明開化の恵の音を分ち与えたことになろう…」と。
医師。明治16年に上京し順天堂の佐藤舜海に師事、翌年東京大学医科大学別科に入学。視力低下により東京盲唖学校に入り鍼の術を習得。点字翻訳に努めるとともにバイオリン科にも学ぶ。明治23年、点字選定委員に選ばれ、同27年「点字唱歌の譜綴り方」を著し、点字楽典のさきがけとして高い評価を受ける。奇跡的に眼病が治り、明治29年には医師開業試験に合格。翌年郷里に帰り開業医として活躍する傍ら、地域社会事業のために尽力した。