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郷土の先人・先覚236 製材業の発展に多大な業績残す

北原直次郎(明治4-昭和2年)

北原直次郎は酒田の実業界の発展に多大な業績を残した1人である。特に酒田を木工業の盛んな土地として名を高めた功績者であった。

明治39年9月に、酒田の大実業家で中村鉄工所の社長でもある中村太助、雑貨文房具類を手広く取り扱っていた丸関商店の関伊右衛門と直次郎は共同で、酒田新町に資本金総額5万円の酒田木材株式会社を創立した。

新鋭の30馬力の機関を設置し、技術者2人、常雇従業員男女三十余人、人夫2、30人使う当時の庄内地方の大工場であった。

直次郎は会社の専務取締役であったが、工場は北原工場と称され、北原工場の煙突は歌にも歌われるほど有名になった。後にシーメンス社製の100馬力のエンジンを導入、その他数多くの新式製材機械を設置して当時県下第一の規模を誇り、製品は満州方面までも輸出され、この地方の製材業の先覚者の役割を果たしていた。

酒田における電気事業計画は明治30年代に盛んとなるが、明治39年秋田県由利郡小滝から電力供給を計画した秋田派と、鶴岡水力電気株式会社から供給を計画した鶴岡派が激しく対立したとき、中村太助、関伊右衛門、直次郎らは秋田派の先頭に立って運動を展開している。

結局、電気事業は酒田町営となるが、電力の需要増大によって、大正14年12月鳥海電力株式会社を創立、秋田県の鳥海川を利用して作った発電所から電力供給を計画。昭和2年に開業して、直次郎はその社長となっている。

直治郎家の北原金左衛門は藩へのたびたびの上納金で嘉永4年士分になり、嘉永7年には三百目筒2挺を鋳造して藩に献上したことで、二人扶持の加増になるなど田町の名家であった。

直次郎は2人兄弟で、兄の九十郎は慶応義塾中退後、東京銀座の博文堂を経営、「経世評論」を刊行、のち本荘に帰り、鶴城を号して新聞で論陣を張り、羽越線誘致運動でも活躍。秋田時事の重役、町会議員、本荘町長などを務め、大正11年に没した。

直次郎が酒田に突然のように現れ、華々しい活躍をしたことを疑問に思い、本荘市史編纂室に問い合わせたところ、北原家関係者の話として、直治郎は米穀商などをやり、時期は不明だが出羽三山神木伐採のために酒田に来たらしいということであった。

直次郎の酒田での活動は、本家北原家と関係があったのではなかろうか。直次郎没後、一家は酒田を去り、新潟県長岡に移った。

(筆者・須藤良弘 氏/1991年2月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

北原直次郎(きたはら・なおじろう)

実業家。酒田船場町に住む。町会議員、商業会議所議員。明治4年9月秋田県由利郡田町に生まれる。直次郎の遠縁の北原ミヨエ家や田村貞介家の話によると、妻は手向村(現・鶴岡市羽黒町)の間瀬家の娘。子供は4人で、長女は兄・九十郎の養女に。1人は若くして亡くなったが、2人の子供や孫は直次郎同様に優秀で大学教授などの職に就いた。直次郎は酒田駅で倒れ、伊藤四郎右衛門家の別荘で療養したが、昭和2年7月26日に57歳で亡くなった。

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