出羽ノ海部屋といえば歴史も古く、かつては大勢の幕内力士を擁して相撲界に君臨した名門である。その初代が出羽ノ海運右衛門で、2代目が出羽ノ海滝右衛門で、いずれも庄内出身であるが、ここでは初代出羽ノ海に焦点を当てて述べてみる。
宝暦7(1757)年田川郡国見村玉川(現・鶴岡市羽黒町玉川地区)の農家に生まれ、名を叶野金蔵という。17歳で江戸に出て、同じ庄内出身の艫綱(ともずな)良助の門人となり玉川を名乗っており、天明6(1787)年3月、30歳で入幕、西前頭3枚目に位置して出羽ノ海金蔵と改名、寛政元(1789)年には備前岡山藩主池田家に抱えられ、運右衛門と名乗ったのが同3(1791)年3月、西前頭5枚目のときである。
やがて同6(1794)年、庄内藩主酒井家に二人扶持を賜りお抱え力士となっている。ちょうどこのころが今に残る4代目横綱谷風梶之助、同じく5代目小野川喜三郎、それに強豪といたわれた雷電為右衛門らが大活躍した、いわゆる寛政期相撲の黄金時代であった。
こうした恵まれた良き時代に土俵を務めながら、残念なことに同4年3月、東前頭筆頭が出羽ノ海の最高位であった。記録によると上位には多く勝星がなかったが、下位に敗れることが少なかったといわれており、幕内通算の勝率4割5分6厘は幕内中位程度の力とされている。引退したのが寛政11(1799)年、41歳のときである。
現役時代はそう目立った力士ではなかったが、温厚な人柄で人望があり佐野山や大関市野上らの郷土出身力士を育てた。また、着眼点を部屋運営にかけた彼の洞察力は、後年名門出羽ノ海部屋として見事に花を咲かせている。
出羽ノ海部屋の初代、2代はともに庄内出身であると前述したが、その後幕末まで空席続きで、文久元年初代常陸山が3代目となり、明治に入って4代目(3代常陸山虎吉)の弟子から、不正出の強豪横綱常陸山谷右衛門が出て5代目を継ぎ、相撲界随一の大部屋に発展させた。その後、6代目(両国)、7代目(常の花)、8代目(武蔵川)、9代目(佐田の山)となり、中でも初代と5代目が名門の要であったようである。
亡くなったのが文化6(1809)年、享年53歳であった。
力士。初代出羽ノ海。田川郡国見村玉川生まれ。17歳のときに江戸に出て、八色木出身の艫綱(ともずな)良助の弟子となり、玉川浪右衛門と名乗る。天明6年3月、30歳で入幕を果たし、寛政11年3月、43歳まで土俵を務める。最高位は東方前頭筆頭だが、当時は谷風、小野川、雷電らが活躍した寛政相撲の黄金期。出羽ノ海の四股名は庄内藩主酒井家から与えられたもので、引退後は年寄専務。昭和33年11月、郷里玉川の玉川寺境内に「初代出羽海碑」が建立された。