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郷土の先人・先覚24

菅原としはる

菅原氏の写真

四国は今治市のほぼ中央吹揚公園に“紋タオル”の創始者、菅原氏の胸像がある。出身地の鶴岡ではあまり知られていないが、愛媛県や、今治では“今治タオルの恩人”として高く評価され、功績をたたえて、地元が生前の昭和30年11月に胸像をたてた。

菅原氏が今治に渡ったのは大正11年、愛媛県の産業技手として赴任した。どんな関係で行ったのかは明らかにされていないが、技術的立ち遅れを自覚した今治のタオル業界から、有能な菅原氏がスカウトされたのだろうといわれている。

菅原氏は東京高等工業学校の紡織科選科(現・東京工大)を卒業し、福島などの工業講習所に技師として勤めていた。

今治は人口12万5000人。51年の四国タオル工業組合の統計によると、タオル事業所は345、全人口のうち8500人がタオル工場で働き、下請けの内職を加えると実に2万-2万5000人がタオルに関係。年間生産高約470億円、全国の約6割を占める“タオルの町”である。

タオルはフランスで発明され、日本にきたのは明治の初め。しばらくはまだタオルの使い方も分からなかったので、大阪で細々と生産されていたらしい。今治でタオルが生産されるようになったのは明治も後期といわれている。

そのころのタオルは、機械の関係で模様や色彩は極めて単調。ほとんど白一色で、たまに黒の線がはいる程度のもの。ことに機械は企業秘密。

創立したばかりの愛媛県立工業講習所の技手に赴任した菅原氏は、タオル専門のジャガード機を開発した。ジャガード機は複雑な幾何学模様、華麗な色彩のタオルを織ることや、均一した製品の生産が可能。

従来の浴用だけでなく、タオルの反物もできるので、この開発は業界にとってたいへんなもの。販路は拡大され、タオル業界に大きく貢献、今治をタオル主産地に発展させた。

昭和25年、四国を旅行中、今治のタオル工場をご視察になった天皇陛下に、今治のタオル業界を代表してご説明に当たられた。このとき、天皇陛下から「君の話された綿業の振興は、こんにちの日本において最も大切なことなので、いっそう努力をされますよう。帰られたら皆のものにこのことをよくお伝えして下さい」とお言葉をかけられ、励まされた。

多年にわたって多くの人材を養成し、教育文化の振興に寄与した功績で、28年8月3日には第1回愛媛文化賞を受賞するなど多くの表彰を受け、俳句もよくし33年4月2日、67歳で亡くなった。2、3年前に亡くなった神明町出身の文子夫人と新海町の禅源寺に眠っている。

(1988年5月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

菅原としはる (すがわら・としはる)

紋タオルの開発に成功。

明治24年2月5日鶴岡市新町(現・新海町)に生まれた。11人兄弟の一番上。庄内工業学校(現・鶴工高)、東京高等工業学校(現・東工大)を卒業。福島県工試、埼玉県立工業学校助教諭、東洋紡織KK島田工場長を経て、大正11年愛媛県へ。県立今治工業講習所長、同県染織試験場長を歴任、昭和21年退官。 その後、県織物工業組合専務理事、今治タオル輸出協組相談役など務め、数多くの考案、意匠を特許登録しないで業界に公開、タオル工業の目覚しい発展に寄与した。

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