斎藤庄左衛門は飽海地方の農業、畜産業、養蚕業の発展に大きな功績を残した1人であり、庄左衛門の子や孫もその事業を引き継いで、一層の発展に寄与している。
庄左衛門は明治17年に山形県が馬耕技術修業のため、九州に派遣した農民6人のうちの1人である。明治17年2月25日「農事研究ノ為メ九州地方巡回ヲ命ズ」の辞令を庄左衛門は山形県から受け取っている。
先進地の稲作農業を学んだ庄左衛門は九州から帰ると、翌18年には飽海郡勧業委員、農商務省通信委員、農産物品評審査委員、明治24年には稲作改良商議員となり、飽海郡模範乾田試作を命じられている。
庄左衛門は各種の稲の試験栽培や良種の普及、水田の区画を改めて耕うんの利便を図るなど、近郷農家の模範となるものであった。さらに桑樹を栽培して養蚕業の振興に努め、農談会を開いて稲作の得失を研究し、この地方の農事の改良に尽力している。
山形県畜産試験場の動物主任・鹿野兼次が山谷新田村山海(現・酒田市平田地区)に明治14年牧場を開き、乳牛を飼育するや、庄左衛門は同年11月、山形県から南山新山山海放牛場の看守人を命じられるが、翌年依願退職している。しかしその後も庄左衛門は山谷の西山に牧場を持って酪農を行い、明治20年代には羽後山谷製乳社を設立、コンデンスミルクを製造、カイト(とび)ブランドをつけ、ウゴヤマヤパスチュアズミルク(羽後山谷牧場ミルク)の名で、東京京橋区銀座のカイリク社から外国に輸出している。当時の英文のラベルが残っている。牛肉の缶詰も製造したと伝えられている。
子の住吉も明治25年に馬耕使用法の免許を受け、農作業の改良を実践したほかに、牧畜、さらに養蚕にも力を入れ、機織工場を設立して、家の前を流れる小川を利用した水車が動力源となり、絹織物を製造している。工場はこの地の若い女子の働き場所ともなった。
孫の喜一も祖父の仕事を引き継ぎ、南平田村養蚕組合の組合長として、養蚕改良事業に取り組み、開田事業も進めている。大正6年には飽海郡から関東方面の模範町村視察員に任命されている。南平田村(現・酒田市平田地区)選出の飽海郡会議員にもなり、大正7年1月の飽海郡通常郡会では、飽海郡で未発達の産牛馬界の発展を図るため、産牛馬組合への補助費の増額を強く主張している。
農業。天保12年8月25日、此吉・千代の長男として山谷村(現・酒田市平田地区)に生まれる。名は喜之(よしゆき)。斎藤家10代目、庄左衛門を襲名した。初代は元和元年生まれの古い家柄、山谷から仁助新田にかけて広い田地を持つ大農家であった。寺子屋を開き、教育にも関心が強かった。明治8年、学資金20円を酒田県に、同10年22円相当の機械を円道学校に寄付している。二男の安蔵は明治41年、当時鶴岡の朝暘高等小学校長である。明治29年1月22日に亡くなった。