遊佐町富岡のはずれに昭和3年建立の「田植型之碑」がある。これは田植型を考案して農作業に大きな貢献をした石川治兵衛を称えた記念碑である。
石川治兵衛は嘉永5(1852)年、飽海郡富岡村前田(現・遊佐町)の農家に生まれ、若いころから農家経営を志し、常に農事改良に情熱を傾けた人である。
記録によると、明治初年以前の富岡周辺の田は、やっこ田(軟らかい田)という湿田で、明治15年ころには乾田に改良されたという。その後、明治24年には北野飽海郡長が馬耕術を奨励、福岡県より技術者・伊佐治八郎を招いて乾田馬耕の指導に当たらせている。
こうした農事改良に目を開いた富岡の青壮年である石川治兵衛、後藤千代治、佐藤重吉、佐藤百治ら10名が改農社という農事改良グループを結成したのが明治26年のことである。
田植えも明治の中期ごろまでは縄を張り、それを基本にするか、または型なしの見当植えで苦労の割に能率の上がらないものであった。その非能率に改農社の人たちが着目したのが田植型考案の端緒となった。その中で特に研究心の旺盛な石川治兵衛がいた。
ある日、治兵衛が囲炉裏の灰に転んでいた糸巻き枠を見てふとアイデアが閃き、いろりの灰の上で糸巻き枠を転がしたところはっきり跡がついた。発明とは案外こうした身近なヒントから生まれるものかもしれない。やがて治兵衛を中心に改農社の人たちが知恵を絞って出来たのが田植型の原型である。だがこの型は小さい上に縦の線だけの簡単なものであった。治兵衛らはその後改良を加えた結果、縦横線ともできる大型田植型が完成している。そのころ仲間の中に専売特許という声もあったというが、金儲けのためではないと言って誰でも使えるようにしたという。こうしたことなども農事改良にかけた治兵衛の熱意が込められていたようである。
この田植型は田植え機が導入されるまでの長い間全国に普及し役立っている。
爽やかな5月の空に秀麗な鳥海山を仰ぎ、庄内平野の中で田植えに勤しむ田園風景は農村の風物詩だったが、今では田植え機の導入で田植型もエンジンの音とともに消えてしまったが、その功績は顕彰碑に燦然と輝いている。昭和5(1930)年、79歳で亡くなった。
農事功労者。遊佐町生まれ。若いころから農事改良を志し、明治10年同志と共に改農社をつくる。田植え法改良のために研究を進め、同27年新式田植型を創案。その後実用化に成功し改良を加えて各地に普及させた。大正11年、庄内三郡農事協議会で表彰された。79歳で亡くなった。