酒田町の伊藤甚作は、若い時が官職であったが刻苦精励の結果、県内有数の土木建築請負業者となり、この地方の土木建築に多大な貢献をしている。
甚作は早くも明治40年4月に土木建築請負を目的として、資本金総額15万円の酒田土工請負合資会社を酒田町に設立し、その代表社員となっている。出資者は中村鉄工所や米穀商・荒木彦助などであった。
酒田町では明治30年代に入ると電気の必要性が高まり、電力の供給をどこに求めるかで、酒田の政界、経済界は2つに割れて激しく争った結果、明治39年10月に酒田町営電気事業とすることに決定、日向村升田(現・酒田市八幡地区)に出力200キロワットの水力発電所を作ることになった。
酒田町ではその工事を競争入札としたが、予定されていた金額を上回る結果となり、発電用の水路工事一式は3万2479円で甚作と随意契約を結んでいる。甚作は明治40年12月に着工、同41年9月に竣工届書を提出している。
山形監獄酒田分監新築工事も甚作が請け負い、約1万6000円で分監内の各種の建物400坪余りを明治41年10月に着手し、同42年1月新町字長坂に竣工している。
飽海郡会議事堂改築と付属建造物新築工事は、新庄黒田義太郎、鶴岡小林昌徳、それに甚作の競争入札であったが、甚作が2万2000円の入札見積もりで落札。大正4年4月に着工し、同年11月に竣工している。甚作は「郡会議事堂改築工事ヲ請負ヒ鋭意精励(中略)全ク設計以上ノ完美ヲ見ルニ至リシハ蓋シ自家ノ損益ヲ顧ミズ専ラ地方公益ノタメ貢献セラレル功労顕著」として金盃3組を受けている。
甚作は酒田琢成尋常高等小学校の改築を19万8300円で請け負い、昭和8年2月着工、同年11月に竣工し、建坪3000坪で東北一、雨天体操場は日本一の大きさといわれるほどの威容を誇った。不景気の時であったので失業救済を目的とする工事でもあったが、甚作はその意にかなう仕事をしたことからも金盃1組を受けている。
甚作は羽越線建設工事でも活躍、大正10年鉄道50年記念で鉄道工事功労者として表彰された全国6人の1人である。昭和9年竣工の酒田商工会議所、同11年の両羽橋付帯土木工事、同13年の鉄筋コンクリート3階建ての酒田郵便局なども伊藤組の仕事である。
土木建築請負業。明治4年5月1日酒田町下内匠町・伊藤太吉の長男として生まれる。酒田町寺町の泉流学校で学ぶ。酒田土工請負合資会社を設立、のち伊藤組となる。当地方の学校、官庁、鉄道など多くの土木建築を手掛ける。琢成小学校建設当時、10万円以上の入札資格者は酒田市では伊藤組一つだけであった。果断力に富み、公共奉仕の念に厚かったといわれる。町会議員、商工会議所議員、酒田醤油株式会社取締役、酒田演芸株式会社取締役。昭和11年11月25日に亡くなった。