酒田市の東部に位置し、出羽丘陵の山紫水明に囲まれたところに北境(きたざかい)の集落がある。山間の水を集めた清流が境川となって、水速女命(みずはやめのみこと)を祭神とする高泉神社の脇を通り、穀倉庄内平野に注いでいる。村の記録には「清水の不動と申唱候村より五町程山奥に瀧有之、山の中段より細く流れ出て春夏秋冬、雨天災天にも水野他省なく見え申候」と記されている。
その境川の近くに、今どきには珍しい「孝婦志け墓」と刻まれた墓碑が静かな山村の中に建立されている。
しげは北境の農家・伝兵衛の子として生まれ、長じて同村の農家・惣兵衛に嫁いでいる。しっかりした働き者であるとともに、優しい心の持ち主で、夫を助けて農作業に励み、その傍ら舅と同居の夫の姉につかえていたが、舅は亡くなり、姉は中風(ちゅうふう)を患い身体の自由を欠いていたが、しげは一言の不平不満も言わず3度の食事はもちろん、衣服を常に清潔にさせ、夏は涼しいところに連れ出し、冬は自分の体で温めてやり、片時もなげやりにしなかったという。その傍ら暇があれば縄をない、莚(むしろ)を織り、貧しい中にも仲睦まじく暮らしていた。
時が過ぎ天保13年1月8日、しげの家が火災になり、ちょうど折悪く日中のことで村の男衆は野良仕事に出掛けて、女と子供だけでは消火もままならず全焼してしまった。やがて火事騒ぎも収まったが、しげと姉の無残な焼死体が焼け跡から発見された。
その遺体をみると、しげは姉の腰をしっかり抱きかかえて、覆い被さるような姿で息絶えていたという。思えば自分だけならいくらでも助かる方法があったろうに、寝たままの姉を案じ、助け出そうと決意して紅蓮(ぐれん)の炎の中に飛び込み命を捨てている。胸にこたえる哀話である。
『飽海郡誌』の巻六には、大庄屋と思われる岡本勘作の名で御称誉下さるよう代官所に差し出した「口上之覚」が記録されており、藩ではそれにこたえ、米1俵を遺族に与えている。
この事は郷土史家・池田玄斎さんの『病間雑抄』にも細かく記されているし、北境の墓碑の側面と裏面に玄斎さん撰文の碑文が彫られている。その最後に“山川はうつりゆくとも永き代に、朽せぬものは名にこそありけれ”と和歌で結んでいる。
飽海郡北沢村(現・酒田市)の農家・伝兵衛の娘として生まれる。後に同村の惣兵衛の妻に。同居の夫の姉が病床にある時、火災が発生。その姉を救うため逃げず、共に焼死する。藩では、しげの行為を賞して米1俵を遺族に与えた。