小野寺順太は地域の福利の増進と殖産興業に生涯を捧げた政治家の1人である。
順太が17歳の時に、山楯組の大組頭であった父に従い、文久3年に完成した遊佐郷日向川新川堀割工事測量に従事している。これが公共事業への関心を深めた始まりといわれている。
明治8年に大町溝配水係に選ばれ、その後30年余に渡って灌漑事業に携わっている。大町堰土地改良区の創設に努めるなど、大町溝灌漑区域の村々の水利事業に精魂を傾けている。その功に報いるため、大町溝普通水利組合では明治34年南平田村(現・酒田市平田地区)の飛鳥神社境内に紀功碑を建立している。
明治2年、藩主・酒井家に会津若松へ転封の命が下るや、順太は人民代表として上京、100日余りも滞京して、政府に転封撤回を請願している。同年、父の後を継ぎ大組頭となった。若くして飛鳥村の里正、村長、学校世話係、勧業世話係などの職につき、明治15年には山形県県会議員に当選している。
明治12年地域の自治を目指す飽海郡町村連合会が結成されるや、酒田の自由民権運動家・森藤右衛門などと共に参加している。同年、森らと山形県最初の政治結社・尽性社を結成し、「自由民権を振起する目的」で両羽新報を発行するが、その役員になっている。明治16年にそれが発刊停止となるや、直ちに両羽日々新聞の発行が計画され、それに参加している。同年は庄内自由党の常議員でもあった。
その後、尽性社は急進的な飽海協会と穏健派の飽海農談会に分裂するが、順太は飽海農談会の常議員となって活躍した。明治21年に飽海農談会を解散し、反自由党的色彩の強い有恒会を本間光訓と組織し、地方政治に大きな影響力を持つが、順太はその会長となった。
この事は、自由民権家の変質というよりも、本質的には地域産業の発展と人民の福利に重点を置いていた結果と思われ、事実順太は農業の改良、養蚕の奨励、両羽橋の架設、荘内中学校設立など勧業・土木・教育に渡って幅広い活動を行っている。斎藤良輔(衆議院議員)が主に殖産興業を目的に設立した荘内会にも参加している。
明治23年、衆議院議員選挙に推されたが、地方政治がまだ未熟であり、それが先決として断っている。しかし、明治35年には立候補し、衆議院議員(憲政本党)となったが、翌年の議会解散で職を失っている。
政治家。天保14年飛鳥村(現・酒田市平田地区)に生まれる。父は小野寺惣三郎。代々農業を営み、この地の肝煎、大組頭を務める。明治43年7月22日に亡くなった。