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郷土の先人・先覚25

伊藤 岩吉

伊藤岩吉氏の写真

羽前羽二重を開拓した人である。

鶴岡市五日町(現・本町一丁目)にあった萬屋という生糸など販売する大きな商店に生まれた。17歳のときに近くで養蚕と製糸業を営んでいた伊藤家に養子として入った。そのことから絹織物製造を始めた。生家で生糸を扱っていたので、絹には小さいころからそれなりになじんでいた。

鶴岡にはまだ数少ない絹機屋として知られ、明治26年に30人の女子従業員を集め、米沢から生糸の機械を導入して、二百人町(現・神明町)に荘内綾織工場を創設した。このとき二十歳そこそこの若さである。

しかし翌27年に日清戦争が始まり、内地向けの絹織物の需要が減退した上、この年に庄内は地震に遭い、酒田を中心に大きな被害を受けたので、地元経済が沈滞した。幸い日清戦争後、輸出向きの羽二重市場の拡大という好条件が出てきたので、鶴岡の機業家も他の絹織物生産地にならって、輸出向羽二重に転換を試みることを考えた。

たまたま東北の機業視察で鶴岡を訪れた農商務省の技師・山口務から「輸出羽二重は将来有望」ということをきいた岩吉は、翌28年に弟の阿部蔵吉とともに京都、北陸、桐生などの先進地を視察。同業者らの出資を得て、百間堀端に共同庄内羽二重工場を創設した。 これは鶴岡における羽二重の始まりといわれ、羽二重生産に先べんをつけた。

ちょうどそのころ、鶴岡に染織を主とする実業学校設立が計画され、28年12月鶴岡染織学校が創立された。岩吉は町長の委嘱で同校の世話役となり、工場の一部を貸与して後進の指導にあたった。

あとで西田川郡立となり染色部と織物部に分かれ、多くの人材を養成、実業界を助けたことはいうまでもない。徒弟学校としては東北屈指の学校に発展した。

その後、絹織物業者の団結と向上をめざして、鶴岡織物会を組織。また、福井の工場に従業員を送って輸出羽二重の製織法を習得させ、庄内綾織工場を輸出羽二重製織に転換して、33年に伊藤羽二重工場にした(この工場はその後、40年に合名会社伊藤工場、41年に鶴岡機業KKとなり社長)。

羽二重工場の創設にとともに、明治36年には羽前精錬合資会社を創立、精錬の改良を促進した。

鶴岡羽二重同業組合(その後、羽前輸出織物同業組合)を創立し、製品の向上をめざし、37年ごろから輸出織物がブームを呼び機業屋もぐんと増えた。

36年に15戸だった機業屋が、一躍88戸に増加、県も新規の力織物導入に補助するなど本腰を入れた。

発明王・斎藤外市とともに鶴岡織物KKも創設(39年)し、晩年は横浜で送り昭和7年に生涯を閉じた。享年62歳。

(1988年5月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

伊藤岩吉 (いとう・いわきち)

阿部蔵吉、加藤瑚一とともに、明治中期以降の鶴岡の羽前羽二重の開拓者。

明治4年4月、鶴岡市五日町(現・本町一丁目)に生まれ、21年に養子。10代から絹織物を織り始め、荘内綾織工場を起こした。先進地を視察して羽二重工場を創設するとともに、鶴岡における羽二重の先べんをつくり、当時の鶴岡町長の委嘱で、町立染織学校の世話役を担当。工場の一部を貸与して指導に務め、地元の業界に多くの人材を送り出した。さらに鶴岡絹織会を組織するなど羽二重の主産地づくりに尽力した。

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