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郷土の先人・先覚250 交通の整備に情熱かける

渡辺九十九(嘉永5-明治42年)

渡辺九十九氏の写真

渡辺九十九は同郷の元衆議院議員・小野寺順太と固い親交を結んでおり、地域の発展に貢献した点で両者に共通したものがみられる。

明治12年酒田町野自由民権運動家・森藤右衛門や小野寺順太などが中心となって結成した政治結社の尽性社に九十九も参加し、同16年尽性社系の両羽日日新聞発刊の株主総会にも出席している。しかし、尽性社が分裂すると、九十九は穏健派の飽海農談会に所属し、のち農談会がこの地方に大きな影響力を持つ有恒会となると、その幹部として活躍している。

九十九は明治13年小学校訓導適応試験に合格しているが、明治8年から小学校教員となり、同13年までその職にあった。

明治15年飛鳥村村会議員に当選、次いで飽海郡全町村連合会議員に当選、飛鳥村外11ケ村戸長などの役職を経た後、同22年に南平田村(現・酒田市平田地区)の初代村長となり、同34年まで村政に尽力している。同36年に飽海郡の郡会議員となり、更に同年飽海郡選出の県会議員(憲政本党)に当選、没するまでその職に就いている。

九十九は鉄道敷設運動を早くから行い、明治35年に開かれた海岸鉄道促成大会にも代表として参加、同39年の飽海郡会でも羽越海岸線促進について積極的な発言をしている。九十九が多くの同志と活発な運動を展開したことで、その後間もなく庄内にも鉄道敷設が実現している。

九十九は飛島港の防波堤の築造、酒田町中の口と四ツ興屋間の道路の改修、最上川の堤防工事、吹浦の南光坊坂の開削、酒田高等女学校の寄宿舎の設置、最上川河口修築などの実現に積極的に努力している。

特に最上川河口修築について九十九は明治38年に、明治15年以来この問題で委員を設け調査し、酒田町でも熱心に運動をし、県会でも大多数の賛成を得ているのに郡会は無頓着であるとし、「最上川河口問題ハ県下盛衰消長ノ関スル事件ナルヲ以テ今ヤ重要問題」で、「本郡意思の存スル所ヲ表示シテ大ニ与諭ノ声援ヲ計画シ事業ノ速成ヲ計レ」と郡当局に強く迫っている。

地元を流れる相沢川の改修、山谷堤・泉谷池の改修、山谷新田の新溜池の築造など大町溝水利事業に大きく貢献し、その工事の貴重な写真なども残っている。

「山形県震水災概要」、「大町溝沿革誌」、「飽海郡会史後編」などの編纂も行っている。

(筆者・須藤良弘 氏/1991年8月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

渡辺九十九(わたなべ・つくも)

政治家。嘉永5年12月3日飛鳥村(現・酒田市平田地区)の長谷部庄治郎の三男に生まれ、松山藩士の養子となり、再び飛鳥村に移る。砂越村の伊藤家の寺子屋に学ぶ。士功会議員、飽海郡連合衛生会議員など多くの役職に就く。自分の意見を堂々と述べ、頑固ではあったが、「ヒゲのおっさん」と愛称され、孫の久夫さんの話では心優しい人であったという。

最上峡付近の道で雪崩に遭い、九死に一生を得たことが鉄道敷設運動に情熱を傾けた一因ともいわれる。明治42年8月20に亡くなった。

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