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郷土の先人・先覚252 彫刻家として数々の業績

小松弥六(明治43-昭和20年)

彫刻家として数々の作品を残した小松弥六は、明治43(1910)年3月、飽海郡日向村草津(現・酒田市八幡地区)で父・小松安吉の子として生まれ、屋号が弥治兵衛であるところから弥六と名付けられたという。

草津といえば出羽富士といわれる鳥海山の山麓に位置する山紫水明の地である。こうした自然に恵まれて育った弥六は、子供のころから手先が器用で、ものを作ったり修理することが好きだったという。ある日父の木槌を壊して叱られ、立派に作り直したというエピソードが残っている。これも文化に遠い山村で自分の手先を生かしながら少年時代を過ごしたことが、彫刻家になる道につながっていったのだろう。

長じて遊佐町(現・酒田市)に住む彫刻家・高橋為吉(高橋剛さんの父)に師事して実作に励み、やがて志を立て上京、昭和5(1930)年、日本美術学校彫塑科に入学、同8年に卒業、同10年には同校の研究科を終えて、美校の助教授となっている。

業績としては昭和9年第14回帝国美術院展に出品した「春の丘」が見事に入選、その後、文部省美術展入選4回、また同15(1940)年、文部省主催紀元2600年奉祝美術展では「躍進」と題した裸婦像が入選の栄誉に浴している。

弥六の兄にあたる村上美弥太は医を志し、のち酒田に村上医院を経営した人だが軍医として出征、惜しくも戦場で命を落とした。弥六の兄・美弥太のことと、自分の皇紀2600年奉祝美術展入選の心境を述べた昭和5年9月の古い新聞記事がある。

「前略…これも郷土各位が御援助の果報です。戦死した兄・村上美弥太も地下で喜んでくれるでしょう。兄は護国の英霊として、かしこくも今秋靖国神社に合祀される時期に、たまたま入選し、また先年兄が戦死した年も入選しましたが、職を異にするのも兄弟不思議な因縁に、兄の例が私の大切な作品を守ってくれた気持でいっぱいです。今後一層精神懸命にし、兄の霊と諸賢に報いたいと念願しております」。これをみても兄弟愛の深さと、兄思いの心境が読み取れる。

だが、弥六も太平洋戦争で犠牲となり、昭和20(1945)年3月、フィリピンの戦場で36歳の短い生涯を終えている。

(筆者・荘司芳雄 氏/1991年9月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

小松弥六(こまつ・やろく)

彫刻家。明治43年飽海郡日向村草津(現在の酒田市八幡地区)に生まれる。彫刻家・高橋為吉に師事、日本美術学校に入り、昭和8年彫塑科卒。研究科を経て、同校助教授に。昭和9年、第14回帝国美術院展入選、その後文部省美術展入選4回、昭和15年には文部省主催の紀元2600年奉祝美術展に入選した。

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