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郷土の先人・先覚254 庄内地方初の女性飛行士

佐藤勝代(明治39-昭和58年)

飽海郡上田村(現・酒田市)出身の佐藤(旧姓は本登)勝代は、庄内地方初の女流飛行家であり、我が国でも草分け的女性飛行士である。

勝代は大正8年北平田村(現・酒田市)の北平田小学校を卒業後、姉の嫁ぎ先の上田村上安田の安部医院で看護婦の仕事をし、さらに鶴岡で助産婦をしているもう一人の姉の下で、助産婦の仕事も学んでいる。勝代は大変活発で、医院にあるバイクを乗り回していたという。

これからの分は秋田県出身で、鶴岡の小学校、鶴岡高等女学校卒業後、女流パイロットとして大活躍し、日本婦人航空協会の理事長の重責を担われた及位ヤエさんの「淑女たちの空 日本女性航空史」によるところが大である。

勝代は昭和2年5月1日、群馬県前橋の第一航空学校に入校。同年12月30日まで在学し、のち立川にある日本飛行学校に移り、本格的な飛行訓練を行い、三等飛行機操縦士の試験に合格、昭和4年10月12日第88号の免状を取得している。なお、中退しているが昭和5年11月には日本飛行学校研究科に入学している。

勝代は、当時の女性パイロット・木部シゲノの記事を紙上でみて、飛行家になる決意をしたという。飛行学校に入るには相当な資金を必要とすることから、医者である義兄に頼み、飛行学校への入学がかなっている。

航空史などで多くの著書がある平木国夫さんのお話によれば、当時女性は二等までの免許しか取れず、活躍の場が非常に狭く、中途で辞める女性パイロットが多かったそうである。

勝代も三等飛行機操縦士の免許を持ったものの、活躍の場がなかった。昭和5年秋、イギリスの女流飛行家ブルースが飛来してきた時、勝代はアブロ機で出迎えに行ったが、多摩川付近に不時着という不運に遭っている。

帝国飛行協会の三等飛行機操縦士の勝代が、昭和5年酒田町大浜を根拠地として、一般に飛行知識を目覚めさせ、当時夢のようだった飛行機操縦が女性でも出来るものということを知らせる目的で、試乗や講演を行う計画がたてられたが実現はしていない。

昭和7年、鶴岡市出身のパイロットである佐藤正さんと結婚して家庭に入るが、女性が飛行士となったことは、当時この地域の人々に大きな刺激を与えている。

(筆者・須藤良弘 氏/1991年10月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

佐藤勝代(さとう・かつよ)

明治39年7月13日、上田村大字上野曽根の宮大工・本登重太郎の三女として生まれる。飛行学校入学当時の新聞は、美人で体質豊満、健康無類であり、家は相当な資産があるが、丙午年生まれで、結婚の相手がいないと両親に対してすまないということから、一生飛行界に尽くす覚悟で上京したという。経歴によると大正10年上田尋常高等小学校卒業とあるがはっきりしない。夫の正さんとの間に4男1女をもうけ、晩年は修善寺に住んだ。昭和58年10月15日に亡くなった。

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