恵まれた雄弁と才筆で地方新聞界に名を成した久松宗六は、明治16(1883)年10月12日、酒田の秋田町で父・寿作の長男として生まれており、少年時代から聡明であったという。
近く琢成小学校を経て明治36(1903)年、荘内中学を卒業した。その後は日本大学法科に学んでいる。在学中は大学の弁論部に属しており、方々の応援弁士などをして活躍したというが、後年新聞界や酒田町議会・酒田市議会などで、縦横無尽にその才を発揮した弁舌の源は、このときに培われたものであろう。
先に小学校教師となり、のち山形県書記・内務省嘱を歴任している。だが、何といっても「愚公」(ぐこう)のペンネームで、長年にわたり酒田新聞の主筆としてその才能をいかんなく発揮して敏腕を振るった。中でも人物評論にかけては群を抜いていたといわれる。
当時の両羽朝日新聞には久松宗六を称え、次のような記事が載っている。
「…新聞人としては精励よくその業に当り、筆硯(ひっけん)の量から言えば山形県には右に出るものはあるまい。方今青年の思想ややもすれば軽佻浮薄に流れ、徒らに西欧文化のみに心酔し、本邦古来の美風を閑却喪失せんとしつつあるは憂うべき傾向である。我が久松氏卓然として時弊の外に立ち…」
この記事によっても新聞人として卓越した識見と言論を持った、硬骨漢の風貌が感じられてくる。
昭和4(1929)年6月、普選最初の酒田町会議員選挙に出馬して見事に当選、その後引き続き市議会議員選挙にも当選して市政に参画、厳正廉潔なる人格で、得意の雄弁と才筆を振るい、時代の潮流を見抜く明晰な観照力を有する政治家として活躍し、その将来を期待された人である。
昭和17(1942)年6月の総選挙は、太平洋戦争のさなかで、大政翼賛会の推薦候補が多く名を連ねて、結果は推進候補の当選が目立っていた。これも時局のなさしめた現象であろうが、その中に久松宗六の名がなかった。彼は軍閥に支配された戦争の行く末を冷静に見つめていたことだろう。己の節操を貫いた信念の持ち主だったという。
だが、半面家庭人としては温厚で、とくに子煩悩な人であり、叱られた覚えなど一度もないと家族の人が語っている。昭和46(1971)年2月4日、87歳で亡くなった。
言論人。明治16年11月12日、酒田・秋田町に生まれる。琢成小学校、荘内中学、日大法科に学ぶ。「愚公」のペンネームで酒田新聞の主筆として腕を振るい、人物評論で知られる。昭和4年、普選最初の酒田町会議員となり、その後、市議としても活躍した。