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郷土の先人・先覚258 飽海郡きっての慈善家

佐藤吉右衛門(明治5-昭和8年)

佐藤吉右衛門氏の写真

中平田村勝保関(現・酒田市)の10代目・佐藤吉右衛門は、飽海郡きっての慈善家であり、篤志家であった。

10代目の吉右衛門は襲名前の幼名を鍛冶と称した。若くして父を失ったことで、家業の経営に非常な苦労をしている。佐藤家は元来この地の大農であったが、吉右衛門が家業に精励したことで、さらに家産を増やし、田畑40町歩余に、山林8町9反を所有する豪農となった。広大な住居と立派な庭園も残している。

先代の吉右衛門は、明治初期に酒田県より漆曽根組の勧農掛を命じられている。また、自由民権運動が高まる明治12年、民情視察で巡行の元老院議官・佐々木高行に出した民情上申書に飽海郡55カ村人民惣代の一人として、勝保関村人惣代同村在佐藤吉右衛門の名がある。自由党加盟人名簿にもその名を連ねている。

先代が自由民権運動の中で人民の幸せのために働いたのを受けて10代目の吉右衛門は苦労して得た財産を惜しげもなく社会のために投げ出している。

大正10年、酒田中学校設備費に350円、同12年山形高等学校建設費に150円、同14年に中平田村村医在宅費に360円、昭和8年社団法人帝国水難救済会に150円を寄付している。その他、中平田村の小学校校舎建築、役場庁舎建築、日本赤十字社、帝国在郷軍人会、神社仏閣への寄付など枚挙できないほどの多さに達している。

社会への寄付だけでなく、自らも社会公共事業に身を投じている。特に消防活動に非常な功績を残している。明治27年、消防手を拝命して以来三十数年間消防活動に従事し、昭和2年10月の東平田村大字関の大火の時は率先して消火活動に当ったことで、山形県消防義会から表彰を受けている。さらに消防義会の基本資金として多額の寄付もしている。飽海郡内消防界の元老と称され、当地方消防の功労者として高く評価されている。

衛生委員としても清潔法の施行、伝染病の予防救済、衛生思想の普及、簡易生命保険の普及発達にも努めている。村会議員、郡農会議員、大町溝水利組合議員、また飽海郡耕地整理組合創立以来の議員など多くの役職に就き、郡村の発達のために大いに尽力している。

昭和3年11月に吉右衛門の社会事業に対する功を称えて、「佐藤吉右衛門翁頌徳碑」が建立された。碑文は内閣総理大臣を務めた若槻礼治郎が書いている。

(筆者・須藤良弘 氏/1991年12月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

佐藤吉右衛門(さとう・きちえもん)

農業。明治5年11月24日、佐藤嘉右衛門の長男として勝保関村に生まれる。明治維新時に記録類が散逸したが、当地方の大富農。佐藤家の初代は中野新田村の出で、寛延2年に没している。10代目は人格が高潔で、徳望があった。子孫らの話では心優しい人であったという。正月には勝保関の全部の家を年始に回っている。11代目は水の悪い村内に飲用水として大町溝から水を引いている。昭和8年12月17日に亡くなった。

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