文字サイズ変更



  • プリント用表示
  • 通常画面表示

郷土の先人・先覚262 「庄内の街の聖者」 メロン栽培に功労

三浦鉄造(慶応2-昭和8年)

三浦鉄造はキリスト教の牧師であるが、数多くの社会事業を行い、庄内砂丘でのメロン栽培の端緒をつくった功労者の1人である。

若い時、自ら農業に従事し、農業への関心も強かった。庄内の稲作を宮城県大牟田方面に紹介したり、信者による庄内産米改良組合もつくっている。

七窪思恩園の創立者・五十嵐喜広が七窪メロン研究会を組織し、砂丘地でのメロン栽培の普及、技術の向上に努めたことは有名であるが、そのメロンの種は、アメリカに居住したことのある親友の鉄造が喜広に最初に提供したものである。

日本基督教団による酒田町での布教活動は明治31年に始まり、鉄造は同39年酒田教会に赴任し、当時鶴岡教会も兼ねていた。酒田には教会の建物がなく、伝馬町の清水屋の2階や民家などを借りて布教を行った。鉄造の熱心な活動によって信者も次第に増え、大正12年には67人にも達している。農民運動の指導者で稲の品種改良に功績のあった西荒瀬村の富樫雄太もその1人。

信者の零細な積み立て、聖書販売やバザーでの利益、寄付金などで大正2年、酒田町今町に土地を購入、町の有力者である小松又三郎、相馬治太郎、佐藤銀吾等や今町の人々の積極的な協力もあって大正13年教会堂が完成している。

大正9年から人事相談所を開いて人々の悩みを聞き、困っていることすべての相談に応じ、職業の紹介さえ行っている。若い労働者や徒弟の休日である毎月15日に、彼等の趣味娯楽の向上と風紀の改善を目的に映画会や音楽会などを開いた。毎回約300人が参加した。

働く人々の家庭のために託児所を開いて幼児の保育に当たったり、貧しい人々を集めて慰安会は明治末から毎年行った。工場や駅、郵便局、各学校、青年団・婦人会などでの講話は年間数十回にも達している。

大正12年地元発行の雑誌から「酒田に有って欲しいもの」のアンケートを求められ、水道と下水、各種相談所と職業紹介所、実業調査機関と答えている。

晩年、鵜渡川原村立町(現・酒田市)の自宅で闘病生活に入るが、信者でその世話をした梅津ふぢ江さんの話では、闘病中も活動を続け、亡くなる寸前まで意識がはっきりし、強い信仰を持ち続けた。「死とはロウソクの灯を隣の部屋に移されるようなもの」と淡々と語っていたという。

(筆者・須藤良弘 氏/1992年2月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

三浦鉄造(みうら・てつぞう)

牧師。慶応2年7月18日鵜渡川原村で誕生。重光・留の長男。梅津ふぢ江さんの話では、明治天皇が酒田に行幸された際、飽海郡役所に勤め、天皇にお茶を差し上げた思い出を語っていたという。明治27年、同志社神学部卒業後、各地の教会を経て酒田に赴任。妻は鶴岡出身の重恵。臨終の時、信者・家族が集まった自宅で、後継者である牧師の別れのお祈りを聞き、最後のアーメンと共に昭和8年9月22日、亡くなった。

トップページへ前のページへもどる
ページの先頭へ

Loading news. please wait...

株式会社 荘内日報社   本社:〒997-0035 山形県鶴岡市馬場町8-29  (私書箱専用〒997-8691) TEL 0235-22-1480
System construction by S-Field