古文書解読と地方史編纂に貢献した阿曽文吾は、明治38(1905)年11月2日、飽海郡田沢村円能寺(現・平田地区)に生まれている。
この地は出羽丘陵の山麓に位置した山紫水明の山村で、近くにある経ケ蔵山は歴史と伝説と自然が豊かな詩情を感じさせ、眼を転ずればかつて修験道の山として栄えた胎蔵山が往古を偲ばせている。
生家は藤左衛門を家名とする人望のあった家柄で、祖父は村長として行政に携わった知名人であったという。彼の知識も人柄もこうした祖父と、実直な父の薫陶によることと思われる。
少年時代は母方の実家である中平田村中野新田(現・酒田市)に預けられている。長じて北海道に渡り、山村で育った体験を生かして開墾に従事、その面積約10町歩(10ヘクタール)を耕したというが、昭和13(1937)年日支事変(日中戦争)が起きると中国北部に応召された。
軍隊では看護兵を命じられ、向学心に燃える彼は軍医を志したという。やがて召集解除になると衛生宣撫班に加わり活動、そのころには妻子も大陸に呼び寄せているが、終戦の翌21年、無事内地に引き揚げた。
かつて志した軍医の夢も消えた阿曽文吾の後半の人生は、酒田市史編纂の業務に携わり、「史料篇」第1集から第8集までに収録された難解な古文書解読の大半を手掛け、1000ページを超す大冊8巻(三十六人御用帳上下・海運篇上下・経済篇上下・文化篇・社会篇)の史料をまとめた熱意と努力は史料篇の中に如実に現れており、地方史研究の貴重な参考史料となっている。
正式には古文書学を学んだわけではなく、能書家であった祖父に教えられ、書道から古文書の道に入ったと、自分では言っていた。
書道は祖父のほか、恩師・佐藤常太郎(号・愛竹)に師事して号を「蔵山」と称した。これも朝に夕に仰いだ胎蔵山にあやかったと聞いている。書風も格調のある筆で“書は人なり”を思わせる書道家でもあった。
人柄は温厚篤実で人に好かれ、古文書解読や書道にしても得意然としたところがなく、自己のペースを貫く研究肌の人であった。
そのほか山菜の知識も深く「みちのく豆本の会」から『山菜』を発刊している。これも円能寺という山村で育ち、恵まれた自然から得た山菜の体験記でもある。昭和53(1987)年9月、享年75歳。
明治38年、飽海郡田沢村円能寺生まれ。酒田市史編纂に携わり、「史料篇」第1集から第8集までに収録された古文書解読の大半を手掛けるなど、古文書解読と地方史編纂に貢献した。正式には古文書学を学んだわけではなく、能書家だった祖父に教えられ、書道から古文書の道に入った。号は胎蔵山にあやかり「蔵山」と称し、書風も格調のある筆だった。昭和53年9月、75歳で亡くなった。