体育家として名を成し、特に山形県ではマラソンの草分け的存在である茂木善作は、明治26(1893)年12月、飽海郡豊原村(現・酒田市)に生まれている。
長じて山形師範学校を大正2(1913)年卒業、郷里の蕨岡小学校に奉職した。だが、向学心止みがたく東京高等師範学校(筑波大学の前身)に入校。ここで知り合ったのが日本マラソン界の功労者である金栗四三(かなぐり・しぞう)で、その門下生となり、恵まれた指導と天性の運動神経で、有望選手として頭角を現した。
大正9(1920)年東京高師在学中、ベルギーのアントワープで開催された第7回オリンピックに金栗四三らと出場し20位となった。この大会に出発する直前、茂木は母校の山形師範で在校生に次のように語っている。
「マラソン練習上注意すべきことは、1足を冷やさないこと、競走前は殊に大切、2練習後は風呂に入り、自己マッサージをやって伏臥(ふくが)すること、3心中に一片の邪念もなくしておくこと」(山形県体育史より)。こうしたことはマラソンに限らず、スポーツを行う人には最も大切なことであろう。
翌大正10年5月には、上海で開かれた第5回極東選手権大会に出場、各国の強豪に交じり見事2位の栄誉に輝いた。これが東京高師4年生の時で、学園生活の最後に花を咲かせている。ほかに在学中、800メートル、1500メートル、10000メートルの日本新記録を樹立、東京箱根駅伝でも活躍。同校優勝の原動力となった。
卒業後は旧制水戸高校(茨城大学の前身)の助教授を経て大陸に渡り、旅順工科大学助教授、昭和9(1934)年吉林師路大学教授、同18年には承徳師路学校長として赴任、満州の各地を転々とわたり、体育によって培われた強靭な指導理念を土台にして、多くの学生の教育の種をまいている。
太平洋戦争の終戦により引き揚げたのが昭和24(1949)年と聞いており、内地の土を踏んだのが割に遅かった。その後は生まれ故郷の酒田市本楯に安住の地を求めた。その傍ら、日本体育協会役員や地域の体育関係の仕事に、日夜精魂を傾けた。
山形県縦断駅伝の初代審判長や、茂木マラソンの開催など大きな業績を残しており、彼のマラソン人生に燦然と輝いている。昭和49(1974)年、81歳で亡くなった。
教育者。明治26年12月、飽海郡豊原村生まれ。山形県師範学校を卒業。蕨岡小学校勤務を経て東京師範学校に入る。大正9(1920)年、3年に在学中、ベルギーのアントワープで開催の第7回オリンピック大会に出場、20位となる。翌年には第5回極東選手権大会に出場し2位に。在学中、800メートル、1500メートル、10000メートルの日本記録を樹立している。卒業後は旧制水戸高校、旅順工科大学の助教授、承徳師道学校長など務める。終戦後は帰国。県陸上界発展に尽力した。昭和49年12月に亡くなった。