袖浦村坂野辺新田(現・酒田市)の佐藤瀧蔵没後7年の大正11年11月25日、佐藤家の当時の当主・久蔵氏を中心に同家で宣誓会が催されている。
その会の席上で、農業の発展に力を尽くし、庄内柿の栽培・普及においても著名な酒井調良は、瀧蔵の功績について次のような祭文をささげている。「(前略)坂野辺新田は翁の堪耐(かんたい)の力により、官民の紛紜(ふんうん)を和し、其伝来の果園百有余町歩は年々整々として進歩の見るべきものあり、其中に柿樹一万株、桃樹は実に二、三万株を有するに至れり、是皆翁の賜(後略)」。
調良の祭文に見られるように、この地一帯に果樹の栽培が普及し、柿・桃・りんごなどの収益が多くなったのは、瀧蔵の努力が大きかったと伝えられている。
瀧蔵は庄内川南砂丘の植林・開発に多大の功績を残し、広岡新田(現・酒田市)や坂野辺新田を開村した佐藤太郎右衛門の子孫である。新田頭の家に生まれた瀧蔵は、父祖の遺志を継ぎ、安政6年に「京田通植付御用見習」となった。
文久3年、庄内藩が異国船に対する海岸警備のために派遣した、藩士居住の30軒分の住宅建設、その藩士の飯米取扱方、大砲火薬蔵の監視、新田開発の調査なども勤めている。
庄内藩士の当地移住とは別に、坂野辺新田からの移住者による広野谷地の開発と飯森山集落の開村も、瀧蔵の努力が大であった。
瀧蔵の功績の一つに官有林払い戻し運動がある。毎時9年の地租改正で、この地一帯の民有林が官有林に編入された。袖浦村の各村落では明治23年、官有林の無償払い下げ運動を起こした。その中心になったのが広岡新田・久保門蔵、十里塚・高橋民蔵、黒森・佐藤民蔵、坂野辺新田の瀧蔵などであった。
明治37年、官有林払い下げが却下されると、翌38年には農商務大臣を相手に行政訴訟を起こした。瀧蔵や佐藤民蔵等は運動で数回にわたって上京し、口頭弁論は数十回も重ねた。
明治45年7月10日、ついに官有地からの民有地引き戻しに勝訴。上京中の瀧蔵から子の久蔵にきた電報は「ソガンカッタ、カネオクレ」であったという。
農業。佐太治・春の長男として天保9年、坂野辺新田村に生まれる。佐藤太郎右衛門家6代目。当時家運は衰退していたが、瀧蔵の努力で十余町歩の耕地を回復、隆盛に向かった。宮野浦・十里塚・坂野辺の戸長、山林世話掛、学務委員、袖浦村収入役、西田川郡会議員。博愛公正の心をもって村民を率いたと酒井調良は評した。