明治後期から第二次世界大戦の終戦後まで「庄内元祖金谷(かなや)氷」の名で、酒田、鶴岡、大山、藤島など庄内一円に売り出された氷の製造を主唱した人は、南平田村大字山谷新田金谷(現・酒田市平田地区)の三浦作蔵である。
作蔵は教員として各地を転々としているが、そこで見聞したものの一つに製氷事業があった。当時庄内地方では主に冬季、地下に貯蔵していた雪を夏になると販売していた。これは衛生上からも将来大きな問題になるとして、製氷事業の有利さを主張した。
作蔵は山間に位置し、年中清水の湧き出る故郷の金谷こそ製氷に最適の地と考えた。それに大町溝水利組合所有の大溜池が2カ所あり、投機の結氷が厚さ30センチ以上にもなることから、そこを製氷の場と考えた。早速水質の分析を依頼したところ、その結果は軟質で、水質は佳良と出た。
製氷を金谷地区とし、作蔵の父・作右衛門の名で氷貯蔵場建設許可を県に求め、同35年9月、田中県知事より認可され、翌年1月松嶺分署長より採氷販売営業の許可も受けた。4棟の氷貯蔵室等の建設をし、その費用は約1000万円にも達した。
明治36年の冬から採氷事業にとりかかり、37年に同地区の阿曽正蔵が運転主任、作蔵が販売主任となり、酒田町善導路小路に採氷販売店を出した。同米屋町酒造業・白畑弥助方の土蔵を氷の貯蔵場として、金谷氷室より氷を運んだ。
ところが当時の人々が氷の食用に不慣れであったことと、酒田町に100人近くいた天然雪販売業者の猛烈な反対と妨害のため、販売が大きな危機に直面した。
しかし、県から派遣された衛生技師の検査で、金谷氷が天然雪と比較して断然衛生的であったこと、作蔵が山形から100丁のかんなを導入して氷の削り方を指導したこと、酒田町柳小路で美人餅屋として有名であった小川小太郎が金谷氷を販売したことなどから、販路は拡大していった。病院や医家、料亭、酒田港へ入港する汽船などでも金谷氷の需要が増大し、金谷氷の名声が急速に高まった。
三浦家に残る金谷採氷組合の決算書によると、明治37年の収入90円余、支出が93円余で3円余の赤字であったが、大正5年には収入が409円余、支出が392円余で17円16銭の黒字となった。
支出の3分の1の114円余は採氷人夫賃として金谷地区の人々に支払われ、地区を潤すことにもなった。
農業。明治3年10月、7代目三浦作右衛門の長男として山谷新田に生まれる。母は留野。一時教職につく。製氷事業に着手、天然雪販売業者の妨害、金谷氷の成功を見ての模倣者の出現など、幾多の困難に遭いながらも金谷氷の基礎を作る。結核で明治43年1月25日に亡くなった。事業は弟の作治郎が継ぎ、長い間金谷採氷組合長として信望が厚かった。