中川徳吉は戦時中から刀工として活躍、その後、終戦により進駐軍命令で作刀が禁止されたが、昭和27(1952)年に解除されたので再び作刀を開始し、酒田の生んだ名匠として名を成した人である。
徳吉は明治41(1908)年12月、飽海郡遊佐町山崎で高橋市右衛門の長男として生まれ、本名は中川伸之助(銘徳吉)、ほかに徳吉が刀工として名を成し、以前その技量に感嘆した中国人が贈ってくれた甦品(ソヒン)という号をもっている。最初遊佐町の北目にある刃物鍛冶屋に弟子入りしたのが、この道の出発点である。
昭和3(1928)年海軍にはいり、軍艦山城に勤務中、艦長の命により石清水八幡宮と軍艦山城神社奉納の作刀を命じられた5人の中の1人に選ばれ、奉納刀鍛刀に精魂を傾けた。それが縁で、呉市の刀匠平賀護国に師事して作刀の修得書を与えられている。
やがて太平洋戦争のさなかになると、陸軍受命刀匠に記録され、200振りを鍛刀して名をあげる。
退役後は酒田市宮海に農機具工場経営のかたわら、作刀研究、古伝鍛刀の熔鋼(卸し)法を修得する。
昭和44(1965)年には美術刀剣保存協会員となり、同46年の新作名刀展に見事入選、以来49年まで連続入選を果たし、鍛刀界に話題を呼んでいる。
昭和51年1月、遊佐町中央公民館主催で「中川仲之助」(銘徳吉)作刀展」を行い、その業績を称え、多くの人たちに感銘を与えている。その時のパンフレットの文章を引用して刀匠の技法にわずかながら触れてみる。
「氏は永らく陸軍受命刀匠として、多く納入及び奉納刀を教えられてきた。特に鍛錬法としては入念の卸熔鋼法による精錬であり、この法は古来造刀には各刀匠の最も苦心と研鑚惜しまない処であり、地鉄の肌色は古刀風をしのばせるに十分であり、刀の格調高い誇りを見せてくれる…」
ほかに鍛刀に重要な木炭は、山を買って松材の良質な炭を自給するなど研究と努力を重ねたという。
昭和52年11月、酒田市では「…作刀一筋に精励され、芸術文化の向上につくされた功績は著しい」として表彰状を贈っている。ほか、作刀の余暇、短歌も作った。次はその自作である。
・吹くでなく吹かぬでもなし春風の 香り送りて花は散らさじ
亡くなったのは昭和57年8月、享年75歳であった。
明治41年12月、飽海郡遊佐町山崎に生まれる。のち西荒瀬村に養子に来て中川姓となる。昭和3(1928)年、横須賀海兵団に入団、工作兵として広島県呉の日本刀鍛錬伝習所に入所、刀匠平賀護国に鍛刀の技を学ぶ。太平洋戦争のさなか、軍刀の作成に励み、その数200振。戦後、郷里で本間順治、永山光幹、犬塚徳太郎の指導を受け、昭和44(1969)年鍛刀を再開。翌年、第6回新刀名作展入選、その後、8連続入選を果たす。