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郷土の先人・先覚27

佐藤 富十郎

佐藤富十郎氏の写真

佐藤先生は明治23年、当時の山添、酒造業、佐藤仁左エ門の弟として生まれた。荘内中学校を経て大正2年東京帝国大学農学科大学実科を卒業、直ちに農商務省に勤務。同9年3月山形県へ出向を命ぜられ、当時設置されて間もなかった山形県農事試験場荘内分場勤務となった。

ここで始めて陸羽132号の創選者である恩師・寺尾博士の薫陶を実地に試す機会が得られたのであった。

まず、手始めとして、分場赴任の翌年、庄内在住民間育種家十数人の品種改良懇談会をつくり、庄内地方の特殊気象に対応できる稲の品種改良育成に努めた。

当時、庄内地方は鶴岡出身の加藤茂苞博士の指導もあって、全国に有名な民間育種家が続出していたので他地方には類例のない事業であった。

この懇談会は、戦時中、供米が始まる昭和14年まで約20年間、毎年3月末ごろ行われていた。福坊主、京錦、イ号、大国早生、山錦など民間育種家の創選した品種が、庄内4万ヘクタールの平野を覆い尽くしたのもこの時代であった。

昭和4年から一時、山形県農務課勤務を命ぜられたが、庄内農民の佐藤先生を慕う気持ちは、いよいよ強く、また先生も同9年の冷害を機に、今まで誰も唱えなかった稲作分施理論を展開。旧東村山郡金井村の田中正助とともに、庄内稲作の指導に意欲を燃やし、押切村の原田藤右エ門、藤島町の長南七右エ門等が先生の手足となって指導に当たった。

昭和13年庄内農民の熱望もあり、荘内分場長に就任し、いよいよ本格的に稲作指導に腰を据える立場になったが、いかんせん、戦争はますます熾烈となり、増産とともに精神指導も重視しなければならない時代になったので、先生は庄内三郡郡農会の後援を得て、分場内に洗心寮を造り、現在庄内南州会創設者の長谷川信夫氏を、道場長兼教育主任として迎え、農民の精神的指導に当たられた。それが昭和16年4月であった。松山町長・土方大美、元酒田市会議長・黒田弘、東北振興研究所長・地主正範の諸氏がこの洗心寮卒業生である。

同17年、県経済部農水産課に転出され、同19年の退官後直ちに酒井家農事部農事奨励主任となり、元山居倉庫役職員関係の方々で造っている三鍬会並びに松柏会、東北振興研修所の農業指導に当たられ、同37年2月2日、71歳で亡くなられた。

名著「東北水稲増収の基本と実際」は、先生の還暦記念として出版された。輝かしい業績の記録であり、庄内稲作の貴重な指導書である。

(筆者・佐藤東蔵 氏/1988年5月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

佐藤 富十郎(さとう・とみじゅうろう)

佐藤先生は私の父の友人で、稲作視察のため農村を回られる時は、必ず私の家に寄られたので、昭和のはじめごろから面識はあった。掛け値なしの誠実温厚な方で、農民に絶大な信頼を受けた。洗心寮第一期生の黒田君の話では、講義中常に「誠意」という言葉を繰り返されたという。退官後は鶴岡に居を移し、各種団体の農業指導の傍ら、時々山添の実家の田圃を見回って、肥料のことや稲作について教えて頂いたと、山添のお婆さんが懐かしげに話しておられた。先生は庄内農民にとっては忘れてならない恩人である。(佐藤東蔵氏)

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