三軒茶屋という地名は全国に多くあるが、酒田にも俗称であるが今でも残っている。ここは昔、北の玄関口に当たり、秋田街道に面していた。地名の由来は金損の東野新田より分家して一家を構えた3人の家があったことが、その起こりと伝えられている。
三家の職業は、茶屋、博労宿、農業とそれぞれ家業を営んでおり、今井家は農業であった。
今井傳之助は天保10(1839)年9月18日、先代傳之助の二男として生まれている。幼名を石之助といったが、今井家は代々傳之助を襲名しているのでこれにならい、明治元(1868)年9月1日、石之助から傳之助に変わって、今井家6代目になっている。
当時の三軒茶屋地区は広い庄内平野と長坂(現・酒田市光ケ丘)の松林のある農村地帯であった。
傳之助はこうした環境の中で先祖伝来の農耕作業に汗を流して働いた。ちょうどそのころ、農業の先進地であった福岡県から、農業技師・伊佐治八郎や平田安吉らが庄内に来て乾田馬耕を指導し、庄内の農業に大きな改革をもたらした。こうしたことが傳之助に愛馬の精神を結びつけたのかもしれない。
広い屋敷には、農耕馬のほかに乗馬用の馬も飼育していたという。ちょうど明治の中期ごろをいわれるが、北海道産の道産子馬で、葦毛(あしげ・白毛馬)を丹念に育てていた当時、どんな経緯かは不明であるが、その馬が役人の目にとまり、明治天皇への献上馬に指定された。驚くとともにその光栄に感激、日夜を問わず愛馬になお一層磨きをかけて仕上げ、手綱をとって上京した。
家人の記録によると「道中は朝早く出発して、夕方には宿に着き、馬が長旅で疲労しないように心掛け、夜間はゆっくり休養を取らせながら旅を続け、家を出てから約1カ月かかってやっと到着した」という。
やがて3歳馬の検査に合格、晴れて献上馬に決定、その労に対して轡(くつわ)と名刀一振りを頂戴して、無事に帰ったという。
大正2(1913)年1月隠居して、同7(1918)年12月8日、享年80歳で亡くなった。農業の傍ら、馬に親しみと愛着をかけた生涯であった。
農業。天保10年9月18日、現在の酒田市北千日町周辺で先代・傳之助の二男として生まれる。幼名・石之助で、明治元年に傳之助となる。愛馬の精神が強く、農耕馬のほかに乗馬用の馬も飼育した。そのうちの葦毛の道産子馬が役人の目にとまり、献上馬に指定された。やがて3歳馬の検査に合格、その労に対して轡と名刀一振りを贈られた。大正2年1月隠居、同7年12月8日、80歳で死亡した。