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郷土の先人・先覚272 京洛の地に拠り活躍した書家

加藤登太郎(明治3-昭和35年)

書道王国といわれた庄内出身の書家は、19世紀以降誕生の故人に限れば7人いる。この7人のうち6人までが鶴岡の士族である。また、鶴岡で活躍した人、東京で活動した人など様々だが、紹介する加藤旭嶺は主として京都で活躍した。

飯島春敬編『書道辞典』(東京堂刊)にある「現代書家系統図」のうち漢字の部をみると、日下部鳴鶴と西川春洞が世を二分し、鳴鶴の系統の18人のうちに、庄内関係では旭嶺と黒崎研堂があげられている。

加藤登太郎、号・旭嶺(きょくれい)は明治3年4月14日、鶴岡市紙漉町(現・同市大東町周辺)で登市の長男として誕生。明治25年、山形県師範学校卒業、31年東京水産教習所教員養成科卒業、23年文検習字科合格、その後赴任地は、新潟・長崎・北海道・鹿児島の諸県にわたった。

しかし、旭嶺の本領は大正10月(42歳)京都に移住後に発揮される。京都に住むようになったのは、本願寺系統の学校や同志社等の職場があったことが主因であろう。

京都に移って間もなくの大正3年3月、上野公園で開会の東京大正博覧会で、旭嶺は相殺閑院宮載仁親王殿下から最高賞銀牌を受けた。彼の漢字(草書)が対象となった。同時に受賞したのが豊道春海、尾上紫舟である。

紙幅の関係で目ぼしいことだけを挙げる。京都での彼の主な活動のひとつに、山本竟山とともに平安書道会を創始したことがある。竟山(1863~1934)は「京都におかえる有名寺社の門標の大字はたいていその手に成る」というような人であった。

「書家」とは「書道を教授し、またはそれを職業とする人」(広辞苑第四版)で、彼も学校で教えるほか、自宅でも教授した。その弟子の一人に後に駐日アメリカ大使となった。エドウィン・O・ライシャワーがいる。彼は当時26歳、夫人と共に京都大学の西田直二郎教授のもとで広く日本学を学んでいた。彼の『日本への自叙伝』(日本放送出版協会、昭和57年刊、106ページ)に「加藤先生」のことが書いてある。

ライシャワーが習字を習いに通ったのは京都の柴野御所田町だったが、旭嶺は昭和35年5月20日、その地で逝去した。享年90歳であった。

(筆者・山口哲夫 氏/1992年8月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

加藤登太郎(かとう・とうたろう)

号・旭嶺。彼が逝去のとき、嗣子・登氏が「旭嶺は柳生石舟斎のような人だと言われたことがある」と挨拶状に書いたのを筆者は覚えている。これはもちろん過褒だとしても、少なくとも庄内士族的なものは持っていた。

しかし、筆者に言わせれば、それよりも芸術家としての純粋性、感傷性のようなものが感じられた。なお、田美江夫人の内助も記しておく。

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