酒田で薬局の老舗(しにせ)といえば中町二丁目にある伊庭屋(いばや)で、姓は川島である。先祖が近江国(滋賀県)日野の伊庭の荘であることから、伊庭屋を名乗った近江商人で、庄内にきたのは玄興寺の開祖玄興坊が連如上人の命で酒田にきた折、お供をしてついてきたのがはじまりと言われている。
最初は大山街道近くに店を構え、酒田にきたのは元禄元(1688)年、7代目のころと伝えられている。
そのころは本町通りに宿を借り行商をしていたが、宝暦6(1756)年同じ本町通りで、当時の酒田郵便局のあった付近を買い取って、薬のほかに調味料や紙などを商う出店を開いた。
ところで伊庭屋の多くの近江商人同様、本店は近江の日野に置き、酒田は支店で、代々安右衛門を襲名していた。当時の主人は幼名が与右衛門、弟が安兵衛で、兄弟が一年交代で本店と支店を預かり、毎年棚卸を行って在庫を確認、商人立ち合いの上、引き継ぎ帳簿を交換して収支の厳格を期したという。
身代をあげた11代目川島安右衛門は、文政元(1818)年の生まれである。
嘉永5年には本店より当時のお金で5000両を出資させて海運業を計画、船場町の廻船問屋本間長三郎、小倉屋金蔵と共同で3隻の船と、瑞賢蔵といわれた幕府御米置場跡を買い入れ、北海道の産物を多く商い発展し、事業が成功している。
明治20年ごろまでの同店「万覚帳」(よろずおぼえちょう)には、秋味(あきあじ・鮭のこと)、筋(すじこ)など北海道産のものや、酒、醤油、味噌、石油など多くの商品が記され、また神農講(農業と薬草の神)を行ったこともみえる。ちょうどこのころは酒田に十数カ所の倉庫を持つ大商人になり、伊庭屋の黄金期であったようである。
同家の信条は「家庭生活は質素にしてお客様に尽くす」近江の商人道を実践、それに安右衛門の人柄と徳が繁栄の大きな要因で、同家の中興といえる人である。
明治20(1887)年5月、安右衛門は69歳で亡くなったが、葬式には生前の徳を慕う人々の行列が本町から寺町まで続いたそうである。
ところで同27年の大震災で同店の石油倉庫は3日も燃え続けたという。以後、本店近江屋の屋敷を売り払い酒田に定住した。
酒田の薬屋の老舗「いばや」。その身代をえげたのが11代川島安右衛門。近江の本店より5000両を出資させて海運業を営み、北海道の産物、サケ、すじこなどを手掛け成功した。酒田に十数カ所の倉庫を持つ大商人で、このころが伊庭屋の黄金期。「家庭生活は質素にしてお客様に尽くす」を信条に、近江の商人道を実践した。安右衛門の人柄と徳もあり、明治20年5月の葬式には行列が続いたという。