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郷土の先人・先覚274 教育者の正道を貫いた正學院

佐藤孫六(慶応3-昭和24年)

佐藤孫六は、慶応3年6月1日、山形県東田川郡藤島町村東で誕生、父は鉄吉、母はふて、家号は孫兵エであった。

明治20年山形県師範学校卒業。26年東京高等師範学校博物学科卒業。その後、秋田、福島、奈良、広島各県の中東学校教員を歴任、明治34年7月広島県立忠海(ただのみ)中学校に赴任した。筆者の得られた資料はここからである。

忠海中学校は、現在竹原市忠海町にある広島県忠海高校で、後に池田勇人首相の出身校となった。孫六は34歳から明治41年の40歳まで(つまり日露戦争を挟んで)就任した。黒の詰襟に軍帽型の帽子はまだ若かった彼によく似合ったという。制服のことを言えば、明治37年の同校生徒のそれが水兵服、水兵帽であることは面白い。時局のこともあり、また広島は呉・江田島のある海軍県であった。

次いで、彼は明治41年3月、山形県立新庄中学校長となり(第一次大戦を挟んで)大正9年4月まで満12年間、校長を務めた。現在の山形県立新庄北高等学校である。

彼は「頭の禿げた、六尺豊かの巨人で、詰襟服を着て、毎日時計のように正確に出勤する謹直無比の人であった。腕力も強く、一寸厚の強弓を引き、中学の柔剣道の腕自慢でも誰一人腕相撲して歯の立つものはいなかった。エリハントという英語教師よりも丈高く堂々たる校長の雄姿は、少年の心に頼もしさを感じさせた。綽名は“たこ”」。また、「一種おかしがたい威厳を感じ、いつも畏敬の念で仰いでいた」。

その修身の授業は、教育勅語の祖述とかいうことではなく、「実直を生活倫理を基底にすえた、国家・社会指導者の育成に重点がかかっているような印象を受けた」。

彼にとって大きな試練の一つは、着任早々の明治41年7月1日、寄宿舎1棟が火災により焼失したことであった。もう一つは、来校の上司から「進学率を上げれば褒章する」と言われたことであろう。この学校は、もともと進学率が良く、たとえば30余名卒業の第一期生中、数名が東大入学という調子で、好評のため他地域からも入学する(寺岡謹平=羽黒町出身=はその一例)調子であった。しかし、当時は、大正7年12月6日、大学令、高等学校令公布、大正9年10月5日山形高等学校開校等が背景にあって、上級学校進学熱が高揚したのであろう。こうした上司の要請に対して、彼は「それは教育の本旨に反する」と言って、辞表を提出したのであった。(大正9年4月)

(筆者・山口哲夫 氏/1992年9月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

佐藤孫六(さとう・まごろく)

新庄中学退任後上京し、阿佐ケ谷天沼に住み、一時鉄道学校等に勤め、後は子女の訓育と園芸、釣魚、謡など、悠々自適の生活を送った。昭和11年元旦、試筆の詩に曰く、

幸にして遇う昭和丙子の季(とき)

梅窓香るうち天憐を頌(たた)う

迂叟(うそう)七十、妻還暦

内外の児孫も亦健全

太平洋戦争熾烈化に伴い、昭和19年神奈川県藤沢市の長男・克郎宅に疎開、翌20年郷里藤島にて終戦を迎え、24年12月4日、84歳で逝去。藤島では「文化協会」の活動に参加。機関誌「いなほ」各号に寄稿。そのうち「高橋如水と清河八郎」は、「藤島町史・下巻」に再録。正學院寿翁良範居士。

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