現在内容面で全国的に有名になった致道博物館の活動を見ると、創設時代の博物館の様子と、その頃の常任理事だった加藤省一郎氏の頭の大きい、寡黙で両眼に独特の物柔かさを漂わせている姿が脳裏に折り重なって浮かびあがってくる。
昭和25年発足した当時の致道博物館は、御隠殿とその西側にある古式蒼然というべき、酒井家の味噌蔵を利用しているという、ささやかなものであった。
加藤氏は、酒井家の学問所文会堂勤務時代から、渋沢敬三氏の屋根裏の博物館に傾倒し、アチック・ミューゼアムを読んでおられ、致道博物館の特色の構想をすでに描いていたに違いない。
加藤氏と私との出会いは、昭和27年ごろ。端的にいえば私も土蔵や小屋の片隅に、無用の長物のように無造作に放り込んでいる昔の生活用品-。それが往年の庶民の生活を物語る貴重な資料であるという基礎知識もなく、多少好きで関心もあったのだが、加藤氏の指導と人柄にひかれ、昔でいう“小走り”から始まり、その後のめりこんでいったのである。
加藤氏の博物館での常任理事としての存在は、わずか6年間といった短期間ではあったが、農村、漁村、山村の一人一人に民具の重要さを説くときは凄まじい熱意のこもったものであった。少し誇張していえば「燕雀(えんじゃく)いずくんぞ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや」。本来の意味は、凡人なんぞに大人物の心が分かるはずはないというのであるが、加藤氏は昔の庶民生活を遺すのに、いわゆる民具は如何に貴重な資料になるかを柔らかに説くのであった。
その努力が功を奏し、方々の部落に理解者・協力者ができ、情報を知らせてくれる方やら、わざわざ博物館に持参してくれる方がぽつりぽつり出てくるようになった。
加藤氏が致道博物館の常任理事から松岡機業(株)の常務取締役に就任したのが昭和31年。この年、かつての古式蒼然とした味噌蔵を利用して「民具の蔵」と称し、民俗資料展示場を開設。退職後40年には、東田川郡朝日村田麦俣の多層民家・渋谷家住宅を移築復元。没後57年には重要有形民俗文化財保存施設竣工。
地方の一博物館で有形重要文化財を多数持っているのは珍しいこととのこと。これらは、すべて致道は靴武官の創設当時、民俗資料収集を特色にしようとした加藤省一郎氏の発想が基盤になっているものと、つくづく思うのである。その発想は言葉を変えていけば、あっぱれな先覚者だったといっても過言ではないと、私は胸に突き刺さるように持ち続けている。
元館長・前館長・学芸員たちが、加藤氏の遺志を継ぎ、学問的に体系づけたのは犬塚幹士氏である。地方出版では、まれな三版にもなった『臥牛菅実秀』の名著を書きあげて間もなく、「逝くものかくのごときかな、昼夜をおかず」の言葉通り、加藤氏は忽然として逝かれた。享年55歳。
明治45年4月14日、碩学加藤省介の長男として、鶴岡市家中新町に生まれる。大正15年、朝暘高等小学校卒業。昭和2年から旧庄内藩酒井家の学問所文会堂で漢学を修める。25年、致道博物館創立と同時に常任理事。博物館事業の推進に活躍。美術に造詣深く、民俗学に詳しく、庄内の民具収集保存に尽力。31年松岡機業(株)常務取締役。41年、鶴岡市教育委員。42年5月1日、55歳で死去した。