牧長治は小島小一郎の名の陰に隠れた存在となっているが、小島と表裏一体となって活動した庄内農民運動の強力な指導者の一人である。また、分裂・統合を繰り返した農民組合運動の中で、牧は終始小島と行動を共にし、14歳年下のコジマの参謀的な役割を果たしていた。
1920年代に入ると、農民運動は一段と高まり、大正13年5月に富樫雄太、小島小一郎、庄司柳蔵を中心として飽海郡連合耕作人組合連盟が組織されると、牧も斎藤清治郎などと共に指導者の一人に加えられた。
大正14年12月に組織が拡大して、東西田川郡の農民組合を含めた荘内耕作連盟が発足すると、会長は庄司、副会長が小島、牧は理事となった。
大正15年5月に日本農民組合山形県連合会へと発達し、会長に小島がなった。その大会が酒田で開催され、中央から杉山元治郎らが酒田を訪れたが、牧が連合会を代表して歓迎の辞を述べた。1000名を超える組合員を集めた大会では、牧が開会を宣言し、会を運営している。
大正15年5月、西平田村大宮で地主の小作地取り上げから、地主側が組織した敬土会と農民組合側との激しい乱闘事件となった。当時の新聞は、この時牧が自ら馬で陣頭に立ち、「者共進め、備中鍬にて敬土会の野郎共の頭を割れ」と叫んでいたと報じている。
牧の活動は幅広く、落選したものの日向川水害予防組合議員や県会議員の選挙に立候補した。貧しい小作人の利益のためを理由としていた。小島が県会議員に立候補した時も竹内丑松、池田政之輔らと共に遊説部を組織して激しい選挙運動を展開した。日本労農党の結成にも参加している。
本間家や山居倉庫が小作人を不利な立場に置くものとして終始糾弾し、酒田に居住する裁判官、警察官、官吏は本間一家の官吏同然であると発言して、名誉棄損で告発されている。弁論に長じ、幾多の演説会で小作制度の改善と農民運動の必要性を説いた。昭和2年9月の全日本農民組合山形県連合会の演説会では、中央の浅沼稲次郎、河野密、麻生久らと共に、牧は「民衆政治の確立」の題で既成政党の腐敗を追及している。
事務能力に優れていた牧が、農民運動に情熱を燃やした動機ははっきりしないが、縁者らの話によると、千葉県佐倉での生活で、知人の影響を強く受け、庄内に戻り運動に入ったといわれている。
農民運動家。梅津利八・ふじ江の二男として明治9年5月一条村字市条(現・酒田市八幡地区)に生まれる。牧貞乃と結婚。本籍は酒田町下台町11番地。鉱脈探しで国内各地をまわる。北海道古武井の鉱業所にも勤務、当時住んだ函館青柳町18番地の家には後年石川啄木も住む。二女で声楽家の故加藤千恵の『続遠い日』によると、「心の暖かい自由な人」で、「子供らにすり鉢を押さえさせて、とろろ汁をつくるのが十八番であった」という。昭和23年1月18日死去。