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郷土の先人・先覚279 庄内で甘藷栽培普及

田中與平(寛政10-明治9年)

庄内に初めて甘藷(かんしょ)栽培を行い普及させた功労者・田中與平利勝(ほかに久門、喜市、宮門という)は、寛政10(1843)年の生まれで、庄内藩に使え、天保14(1843)年十五人扶持を給され勝手支配役となっている。その後、松山藩郡代に転じ新知100石給与、その後普請方、さらに嘉永5(1853)年漆木植付役を命じられた。

安政年間、與平は江戸藩邸から庄内に下る途中、越後で甘藷の栽培を目にして農民に尋ねたら、砂丘地や痩(やせ)地にも育ち、凶作時の非常食にも良いというので種いもを分けてもらい帰った。

與平は帰国すると早速気候風土の似通った最上川南岸の浜中(現・酒田市)を選び、甘藷植え付けを家老に上申したが、その識に乏しく、賛同を得ることができなかったが、與平はことあるごとに救荒作物としての甘藷の効果を力説、ついに家老も植え付けの許可を与えた。

そこで浜中の奥山長左衛門、早坂九郎左衛門らが力を合わせ、八郎兵衛の畑地約5畝歩に試作して、全然経験がないため苦労したが、甘藷苗5000本植え付けして70貫目の収穫を得たという。

だが、その貯蔵のむずかしさに手を焼き、與平は早坂九郎左衛門らを越後に派遣して貯蔵法を習得させ、栽培に貯蔵に研究を重ねた結果、次第に生産も増加して、庄内砂丘地を活かした名物の一つになった。

こうした甘藷栽培は飢饉時には大いに役立ち、村人の飢えを救ったと伝えられる。亡くなったのが明治9(1876)年2月で、享年79歳。

(筆者・荘司芳雄 氏/1992年11月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

田中與平(たなか・よへい)

農事功労者。庄内藩勝手支配役、弘化4(1847)年亀ケ崎蔵方から松山藩郡代に転じ、その後普請方を経て嘉永5(1852)年新たに設けられた漆木植付役に任命され、庄内川南地区の植え付けを担当する。安政年間江戸から庄内へ向かう途中、越後で甘藷が栽培されているのを見つける。痩地でも栽培が可能、飢饉時の非常食に適することを聞き、農民に交渉、種藷を入手して持ち帰り、浜中の不毛地で栽培した。農民は與平の功績をたたえ、石船神社境内に寿碑を建立した。明治9(1876)年2月、79歳で死去。

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