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郷土の先人・先覚282 勇・知・情の名代官

諏訪部権三郎(宝暦元-文化6年)

文化元(1804)年鳥海山噴火で遊佐郷に甚大な被害が起こり、その救済に身命を投げうち郷民を救った代官・諏訪部権三郎の碑が、遊佐町の本願寺境内に建立されている。

権三郎は宝暦元(1751)年、父・権三郎定嶝の子として鶴岡に生まれ、初めの名は権蔵、定令、子彬である。天明2(1782)年、兄・茂右衛門定固のあと家督相続して庄内藩士に列し、禄150石を賜る。

その後、寛政元(1787)年金請払役並びに買物方となる。翌2年急使として出府、同3年帰藩に際し精勤を認められ、藩主・忠徳(ただあり)公より金200疋を賞与される。同4年には仙寿院内用人に選ばれ、同6年内用人頭役となる。その間たびたび出府、翌7年9月には平田郷検見を仰せつかり、また同月預り地元締を命ぜられ、同9年11月まで在職のあと、病気のため退職している。

享和2(1802)年、権三郎は新たに遊佐郷代官となり、一郷ニ名代官の定めにより、渡部藤四郎が相役となっている。

地震が起こったのは文化元年6月4日で、遊佐郷は特にひどく、被害調査によると、石辻組、官野内組、江地組の合計は潰家(つぶれや)1447、大破644、圧死人109、怪我人70、斃馬(たおれうま)149などで惨害は計り知れないものがあった。郷民は食うに米なく住むに家なく、途方に暮れるのみで、藩ではただちに権三郎を遣わした。

彼は救済のため藩の許可を得ず、独断で郷蔵米四千余俵を貸与し急場を救った。後日貸与米は救恤米として藩より下賜、痛米は各村に救与米として与えられた。これも代官の手腕である。

また地震のため倒れた作物を村役人に命じ手入れをさせた結果、当秋の収穫六分作になったという。その果断と用意周到さは、勇と智と情を備えた名代官である。

藩主も権三郎の処置は了としながら、独断した咎(とが)によって同年11月京田通り代官に左遷された。遊佐郷の人たちは涙を流して恩人との別れを惜しんだという。

本願寺の碑は嘉永年間に遊佐郷の人たちが徳に報い建立したもので、「本郷ニ来リ直ニ倉廩(そうりん・米倉)ヲ発(ひら)キ罹災ノ民ヲ賑シテ曰ク藩命若シ之ヲ咎メバ屠服(とふく・切腹)以テ罪ヲ謝セン」と刻まれ、決意のほどが偲ばれる。

文化6(1809)年、59歳で死去した。

(筆者・荘司芳雄 氏/1992年12月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

諏訪部権三郎(すわべ・ごんざぶろう)

代官。庄内藩士・諏訪部茂右衛門(定固)の弟。天明2(1782)年5月、家督相続して禄150石の給与を受け、寛政元(1789)年4月、金請払役並買物方となる。享和2(1802)年遊佐郷代官に任ぜられたが、文化元(1804)年6月、鳥海山が噴火して大地震となり、遊佐方面に大きな被害が出た。権三郎はその救済のため、独断で藩の備蓄米四千余俵を農民に貸与、急を救った。そして、同年11月、藩の咎を受け、京田通り代官に左遷された。遊佐郷の人々は、その徳を称えて碑を建立した。

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