「明治二十四年十月三十日 農事実業教師島野嘉作氏来宿。十一月二日午後 島野農事教師佐藤善治氏畑馬耕。十一月三日、四日 島野教師字猿田ニテ馬耕実演。十一月六日 伊佐治八郎氏来訪」(『余目町史資料』第一号)。これは余目町(現・庄内町)出身の篤農家・佐藤清二郎の日記の一部である。
佐藤清二郎は若い時から農業の改善に志した。自ら稲作の試作場を設けて、選種や耕転、あるいは施肥の方法など実験し、良い成績をあげると、人々の利益のためにこれを公表した。
早くから乾田馬耕の有利さを知っていた。東田川郡で明治24年福岡県から島野を招へいすると、自分の所有地の猿田に馬耕実習田を設置して、馬耕技術を習った。そして島野に協力し、馬耕の普及に努めた。日記にもあるように、飽海郡が招いた馬耕教師・伊佐治八郎も着任早々に清三郎を訪問している。
養蚕にも強い関心を持ち、明治21年斎藤良輔、佐藤善治、佐藤清三郎が発起人となって、桑植付会社の偕行社を創立すると、清三郎はその社長となった。自分の田地を担保にして資金を借り、大桑園を作った。優良な蚕を配布し、養蚕業の普及と製糸の改良に努めた。同年荘内蚕糸業研究会が創立されたが、鵜渡川原村糟谷次郎、本楯村佐藤駿蔵、黒森村済井調良ら30名の創立委員の中に、清三郎も名を連ねている。
明治26年の東田川郡勧業会で、農家の副業としての藍作の改良を唱え、「独リ農家ノ仕合ノミナラス地方ノ為メ国ノ為メ」にその実現を希望すると主張した(『余目町史』下巻)。
「明治十九年四月五日 彦作堰測量見分ニ行ク」。佐々木彦作2代にわたる最上川からの用水堰開削に清三郎は協力を惜しまなかった。彦作堰は失敗に終わったが、その後吉田堰の名で、工事が行われることになると、率先して賛成し、失敗を恐れて躊躇する地主たちを説得した。1600町歩を潤す吉田堰は明治45年に竣工するが、清三郎の協力に負うところが大きかった。
果樹・野菜などの栽培の研究にも励む一方、長い間続いていた余目村小島と竹田村(現・酒田市松山地区)との激しい境界争いの解決にも尽力している。
明治39年農商務大臣より功労賞、同40年に大日本農会総裁より有功賞を贈与された。
農業。天保6年、大野村(現・庄内町余目地区)大沼作兵衛の三男に生まれ、万延元年、余目村佐藤家の嗣子となる。余目村の地租改正地主総代、村会議員、助役、郡会議員、各種共進会審査委員、水利土功会議員、荘内三郡連合会議員などの役を勤める。明治14年、天皇東北巡幸の際、稲刈作業を天覧に供し、同41年、東宮殿下の東北行啓の際には、殖産興業に尽くしたことで謁見の栄誉に輝いた。子の清三郎氏は県会議員などを勤め、孫の東一氏は著名な郷土史家。大正3年7月16日に死去した。